『愛する者が病んでいます』 (ヨハネによる福音書11:1~6)
彼女たちのように、私たちも主イエスを信じ、信仰の歩みを続ける中で、突然の苦しみに遭う時があります。その時の戸惑いや焦りを、神の家族も同じく経験してきたことでしょう。「なぜイエス様は私の祈りにすぐ応えてくださらないのか、今こそ主の助けが必要な時なのに…」と疑問に覆われてしまったことでしょう。
主イエスが格別に愛し、親密な関係をもっていた家族がいました。その家族はベタニアに住んでいたラザロとマルタ、マリアの二人の姉妹でした。彼らがどのように主イエスと親しくなったかは分かりませんが、聖書を見ると、主イエスはその家族を愛され、ベタニアの近くに来られた時は、必ずと言っていいほど彼らを訪ねられ、その家族は真心から主イエスをもてなしていたことが分かります。
しかし、ある日その家族を支えていたお兄さんのラザロが突然死の病気にかかり、二人の姉妹は慌てて主イエスに助けを求めることになります。二人の姉妹は人をやって、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」(11:3)という伝言を届けました。恐らく彼女たちは伝言を聞いた主イエスがすぐ駆けつけてくれると期待していたことでしょう。ところが、その知らせを聞いた主イエスは急ぎません。むしろ、「この病気は死で終わるのではない」と言われ、なお二日間同じ場所に滞在されたと記しています。そして、その間にラザロは死んでしまいます。その時感じたであろう二人の姉妹の失望と落胆は、言葉では言い表せないものだったでしょう。
彼女たちのように、私たちも主イエスを信じ、信仰の歩みを続ける中で、突然の苦しみに遭う時があります。その時の戸惑いや焦りを、神の家族も同じく経験してきたことでしょう。「なぜイエス様は私の祈りにすぐ応えてくださらないのか、今こそ主の助けが必要な時なのに…」と疑問に覆われてしまったことでしょう。
しかし、信仰者は次の主イエスの言葉に信仰の焦点を合わせるべきです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(11:4)・・・ここで「神の栄光」とは、神の力と愛と知恵の現れです。そうです。私たちの存在の目的は、神の栄光を現すためであることを忘れてはなりません。これは、神が世界を創造された時から変わらない真理です。ですから、キリスト者は苦しみの中にあっても、その中で神の御心を見つけようとし、神の栄光がどのように現わされるかを、信仰の目をもって期待するのです。主の助けが見えなく、答えが遅れているように思えても、決して失望しないことです。なぜならば、主の時間と私たちの時間は違いますし、主は主の最善の時に最高のものをもって答えてくださるお方であるからです。
ある神学者は、“キリスト者の生活にとって最も安全な時とは、実は試練を受けている時だ”と言いました。これはつまり、キリスト者は、苦しみに遭う時にさらに祈り求め、熱心に御言葉を黙想するようになるからです。その中で私たちは主の御心を知るようになり、御手の中に守られる平安を得ることになるでしょう。そう、私たちに迫ってくる苦難は決して苦難だけに終わることはありません。神は必ず恵みに変え、栄光を現わしてくださるはずです。
今私たちにできることは、「主よ、愛する者が病んでいます」と主の助けを求め、主の時を待つことです。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿