主イエスは、十字架を背負ってゴルコタの丘に向かって歩く途中でした。主イエスは、泣きながら付いてきていた女性たちに向かって、 “エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな、むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け!”と語られます。主イエスの歩まれた道は、あまりにも辛く厳しいものでした。だから、主イエスを慕っていた女性たちは、主イエスの肉体的な苦しみと、死そのものに耐えられない悲しみを覚えていたことでしょう。もし私たちが、2000年前のエルサレムにいたとして、も同じ悲しみに包まれていたに違いありません。しかし、主イエスは、「わたしのために泣くな」と言われる。なぜならば、主イエスの十字架の道は、究極的には復活の勝利の道であって、全人類に救いと勝利をもたらす道であったからです。むしろ私たちは、主の十字架の道に感謝し、主の命をかけた愛に感謝の讃美をささげつつ、主に従うことを心がけるべきです。
しかし、「泣くな」と言われた主イエスが、続きの言葉では「泣け」と命じられる。「自分と自分の子供たちのために泣け」と。これはやがて訪れるべきローマによる滅亡の預言の言葉であり、その日には、泣かずにはいられなくなることを、主イエスは見ておられたのです。その日を恐れつつ、エルサレムと子どもたちを胸に抱き、涙をもって神の憐れみを乞い求めなさいと言われるのです。
主イエスは、山上の説教の中でも、“悲しむ人々は幸いである。その人々は慰められる。”と教えられます。父なる神は、涙をもって悲しむ人を尊ばれるお方です。 “自分の罪と弱さのゆえに悲しむだけでなく、自分の家族と隣人、自分の民族と国の高ぶりと罪、堕落について悲しむ心と、涙をもって執り成す人”を求められるのです。
しかしここで大切なことは、私たちが涙をもって悲しむのは、誰の前ですべきなのかということです。人の前で、人の慰めを求めるのではなく、私たちのすべてを知っておられる父なる神の前で泣き、悲しみ、嘆くことです。“誰も聞いてくれないことで泣くのではなく、私たちの涙と悲しみを聞いてくださる方、すべてを知っておられ、救いの道を開いてくださる主イエスの前で泣き、悲しむことです。その時私たちを慰める主の御手が働くことを体験することができるでしょう。
愛する皆さん、「あなたは泣けますか!」…わたしたちの涙と悲しむ心をいつも見つめておられる方がいます。その方はわたしたち以上に悲しまれ、呻きをもって執り成してくださると聖書を通して約束されています。“この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか(ヘブライ4:15-16)”
「信教の自由を守る日」を迎える神の家族の皆さん、今日も主イエスは十字架を背負われる姿で私たちに問いかけておられます。「あなたは泣けますか」と。あなたが主の前で、日本の国と子どもたちの救いのために悲しみ、涙する信仰の持ち主となりますように…。ハレルヤ!
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