2020年9月21日月曜日

2020.8.2 本日の宣教

『私たちの信仰告白②』  (ローマの信徒への手紙83134)

先週に続き、「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という第二項、「子なる神」において、十字架の苦しみと贖いの死に続く、「陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。」という内容を分かち合いましょう。

使徒信条はキリストの十字架の苦難について、「十字架につけられ、死なれた」ということだけでなく、「葬られた」とまで告白しています。主イエスが罪人たちの贖いのために死なれ、墓の中に葬られたという事実、その中からキリスト教会は主イエス・キリストのへりくだりの極みを見出していたことでしょう。初代教会の信徒たちは、「キリストは、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:7-8)」と「キリスト賛歌」を歌いつつ、最も悲惨な死である十字架の死にまで御自身を従わせ、ついには墓の中に葬られるまで下られたという、子なる神のへりくだりの事実を告白せざるを得なかったことでしょう。このキリストの謙遜を教会とキリスト者は時代を超えて告白する中で、キリストの足跡に従うべきです。

続けて、使徒信条は「主は陰府にくだった」という事実を加えています。このことは、“主イエスは、私たち人間と全く同じ死を経験された。そして、人間が行かなければならなかった死後の世界まで主イエス自ら下られた。だから主イエスの愛と救いの恵みが届かない所はどこにもないのだ”という信仰の宣言でもあるでしょう。…天にも地上にも、そして死者の住むという陰府にまでも、主イエスは下って行かれ、救いの手を差し伸べられるというキリストの愛への確信に満ちた告白なのです。…「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」(詩編1398主イエスは、私たちの生きている地上だけでなく、罪人が死んで行くべき陰府にまで下ってくださった。また、神から最も離れたところである陰府にまで下られ伝道されるという、測り知れない愛の熱情を現しています。だから、「陰府にくだり」という告白によって、私たちは死をも恐れずにいられるのです。

そして、福音の中の福音である「キリストは、三日目に死者のうちから復活された」という告白です。キリストの死と復活は個別の出来事でなく一つのことです。まるでコインの両面のようなものです。すなわち、キリストの死と復活によって義と認められ、救われることにつながるのです。とりわけキリストの復活は人間の理解の領域でなく、信仰の領域となります。多くの人が十字架の死までは受け入れても、復活の出来事の前につまずいてしまうのも信仰と決断の領域だからです。まさしく初代教会の弟子たち(パウロを含む)をはじめ、多くの信徒たちの復活のキリストへの信仰のゆえに、キリスト教は世界宗教として広がるようになったのです。最初は弱虫でありましたが、復活のキリストに出会ったことによって、死をも恐れず、十字架と復活の福音を大胆に伝える証人に変えられていったのです。そうです。神が主イエスを死から復活させられたことを信じるなら、死んだも同然の自分にも神に新しい命を与えられ、全く新しい人生を歩めるようになるのです。あなたは復活の主に出会いましたか。…ハレルヤ!

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