『 神の神殿は大丈夫ですか 』 (ルカによる福音書 19:45~46)
本日は受難週礼拝です。2000年前、主イエスは父なる神の御計画に従い、十字架にかかるためにエルサレムに入城されました。小さな子ロバに乗って入城される主イエスに対して、大勢の群衆は“ホサナ”と声を上げ迎え入れました。その聖書箇所を黙想しながら、ふと、その時の主イエスはどのような表情をされただろうか?という疑問が沸きました。私たちはよく天皇やオリンピックの金メダリストを喜ぶためにパレードが行われるのを度々目にします。その時、大勢の人が道を埋め尽くして歓声をあげると、それに笑顔で手を振りながら挨拶をする風景を浮かべるわけですが、主イエスのエルサレム入城の時もそうだったでしょうか。
聖書は、主イエスがエルサレムに入城された後、最初に行った出来事を記しています。まず、主イエスはエルサレムを見つめながら泣き叫ばれていたことが分かります。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。(ルカ19:41)」… 主イエスが泣いておられる。それも、静かに泣いたのではなく、大声で叫びながら泣いたと聖書は記していたのです。その後の主イエスが取られた行動は、あの有名な神殿浄化でした。それが本日の御言葉です。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。(ルカ19:45)」…エルサレムに入られてから主イエスの目が向けられ、集中して語られたいたところこそ、エルサレム神殿でした。愛の主イエスの姿からはなかなか見られない行動や言葉でした。
それでは、何が主イエスをこれほどまで憤らせたのでしょうか。それこそ、当時のエルサレム神殿が神殿としての役割を果たせなかったことと、神の神殿本来の姿を失っていたことに原因がありました。それでは神殿の本来の姿は何でしょうか。主イエスは、「私の家は祈りの家でなければならないのだ!」と言われたことから、神殿の存在の目的が示されていますよね。
そこで主イエスは、新たな神殿を建て直そうとされました。その神殿こそ、イエス・キリストの十字架の血潮によって新しく生まれ変わった神の民の内側に建てられた神殿であります。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿です。(一コリント6:19)」…神殿の存在の目的は、ただ建物として存在することではありません。神殿の目的はただ一つ、神を礼拝し交わることです。神を礼拝するとは、自分自身を生きたいけにえとして献げ、神の栄光を現すことを表します。それでは、今の小泉町教会の神の家族は神の神殿としての目的にふさわしく建てられていますか。エルサレム神殿をひっくり返された主イエスが、神の神殿である私たちの姿をどう見ておられるでしょうか。願わくは、主イエスに喜ばれる礼拝が献げられる神殿としての神の家族お一人お一人でありますように…。あなたの内に建てられている神の神殿は大丈夫ですか。ハレルヤ!
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