2022年5月29日日曜日

2022.5.15 本日の宣教

 『 互いに重荷を担い合う 』(ガラテヤの信徒への手紙6:1~5,9~10)

先週、私たち小泉町教会の定期総会が開かれました。コロナ以降をどう歩むべきなのかという課題を抱え、2022年度の主題聖句と標語が決まりました。それが、本日の御言葉です。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2節)

コロナパンデミックが始まって以来、肉体的、精神的、経済的な被害を受けている方々のことを覚えます。長い間続いたコロナ危機によって、医療現場で戦っている方々、商売に打撃を受け失望している方々、また、コロナ感染の不安の中で人間関係が築けなくなり孤独感に包まれている方々、…普通であれば、礼拝堂に集い共に礼拝し、祈り合い、食卓を囲んでゆっくりと交わることができたのに、一人寂しく重荷を背負い苦しみに耐えるしかなかった小泉町教会につらなる神の家族を思うと心が痛みます。

その他、世界に目を向けると、依然としてコロナ危機が続いており、予想もしなかったウクライナ戦争が勃発し混乱が広がっています。さらに気候変動による被害がインドをはじめ、世界各地で起きている状況です。まさしく主イエスが言われた終末に起きるはずの出来事が具体化しているような気がしてなりません。

このような時に聞こえてくる「互いに重荷を担い合いなさい」という主イエスの御声。興味深いことに、2節では「互いの重荷を担いなさい」とあり、5節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とあります。つまり、私たちは、自分の重荷を担うと共に、互いの重荷を担い合うということが言われています。私たちそれぞれに、主イエスが言われたとおり、各自が負うべき重荷としての「自分の十字架」があります。それはしっかり担っていかなければなりません。自分の重荷を担うことをしないで、他者の重荷を担うということは、本末転倒であるからです。だからといって、自分の重荷を担うことだけで精一杯だから、他人の重荷は関係ないということであってもならないのです。その時、忘れてはならないのは主イエスが私たちの重荷を担っておられるということです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)」という約束の御言葉から慰めをいただくのです。キリストの体なる教会共同体においては、主イエスが担ってくださるという御言葉に励まされながら、互いに担い合うべき重荷があること、また互いに重荷を担うことによって「キリストの愛の律法が全うされる」ということを成し遂げていく使命があることを覚えましょう。まず牧師が、執事が、一人一人の信徒が、互いに弱さを認め合いつつ、互いの重荷を担い始める時、主イエスが祈られた一つになるビジョンが成就されるでしょう。

「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(ガラテヤ6:9,10)」…願わくは、主イエス・キリストが十字架を通して私たちの身代わりとなり罪と罰を担われたように、私たちも互いに重荷を担い合うことによって「キリストの律法を全う」する2022年度の小泉町教会の神の家族お一人お一人となりますように…。ハレルヤ!


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