『散らされて、結び合わされて』(創世記11章1~9節)
世界中が同じ言葉を使って、同じように話していたころ、人々は散らされることを恐れて、みんなが一つになれるように、天まで届く塔のある町を建てようとしました。ところが主はこのあり様を見て、人々の計画を妨げるために言葉を混乱させ、お互いの言葉が聞き分けられないようにしました。言葉が通じ合わなくなった人々は町の建設を止めて、全地に散らされました。……これが「バベルの塔」として知られている物語です。
バベルの塔には、そのモデルとなった実在の巨大な塔がありました。それは他国の人々をも服従させる巨大な力を象徴するものでした。巨大な力のもとで人の違いを抑え込み、「一つの民」になることで、より大きな力を持とうとすることは、歴史の中で繰り返されてきました。けれどもそこには強制的な力が働き、犠牲を生み出します。そのような人間本位の統一を、主は妨げることがあるのです。
私たちはそもそも違いをもって生まれて来ましたし、違った生き方をしてきました。もちろん、一致することや似ていることもありますが、違っていることの方が多いかもしれません。主はこの世を実に多様な世界として作られました。最近では、生物多様性の重要さが知られるようになりました。多種多様な生物が地球上に存在し、互いに関係し合うことで命が溢れる世界が保たれています。多様性が失われると、どの生物も生き続けることが難しくなります。多様性は種の違いだけでなく、同じ種の生物の中にもあり、そうすることで周りの環境が変わっても適応し、生き残ることができるようです。それぞれに与えられた個性や違いは、人が豊かに生きるために必要なものとして、主が備えてくださったものです。違っていること、個性をもっていることは、人類に対する主の祝福の現れだと言えるでしょう。
バベルの塔の物語では、主は人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしました。この物語は人々の思惑が妨げられ、全地に散らされるという裁きで終わっています。けれども、この物語はアブラハムの召命へと続き、イスラエルの歴史を経て、イエス・キリストの救いの出来事へとつながっています。バベルの塔の物語を、天地創造から終末まで続く主の計画と御業の中で起こった出来事として捉えるならば、ここでの主の御心は、人と人とを分断し、関連を持たなくさせることではなかった、ということがわかります。人間の力によって違いを取り込み、強制的に一つにさせようとすることは、主の御心に反することでした。そこで主は混乱を引き起こし、人々を全地に広がらせました。そして全地に散らされた人々を祝福するために、主はアブラハムを選び、イスラエルを通して失われた主との結びつきを回復させようとしました。主との和解をイエス・キリストを通して実現させ、違いをもった私たちを主にあって互いに結び合わせようとしておられます。私たちはそれぞれの言葉で語り合いながら、互いの言葉を聞き合い、結び合わされた者へと変えられていく。そこに希望があります。
金沢キリスト教会 杉山望
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