『 種を蒔く人の涙 』 (詩編126:1~6)
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩編126:5~6)」
春を迎え、農夫たちは一年間の営みのために畑や田んぼで忙しくしています。私も先週、牧師館の周りの小さい畑に種を蒔くための備えをしました。今年はどんな野菜が食べられるか楽しみです。本日、小泉町教会もキリストの畑としての一年間の豊かな収穫のために、農夫たちがどんな種を蒔くべきか、どのように育てていくべきかなどについて話し合う総会を開きます。とりわけコロナ危機という状況において、主の御心に従いたいと願います。
さて、今日の詩編126編は、バビロン帝国によって南ユダ王国が滅ぼされて、多くのイスラエルの民が、遠くバビロンにまで捕虜として連れ去られた「バビロン捕囚」と呼ばれる歴史を、その背景に持ちます。そして神は、預言者たちの言葉通り、ペルシャ帝国のキュロス王の勅令によって、長きに亘る捕虜生活から解放を与え、イスラエルへの帰還を成就されることになります。しかし、希望と幻をもって帰ってきた人々を待ち受けていたのは、過酷な現実でした。ソロモン王が建てたエルサレム神殿は、見る影もなく廃墟となっていましたし、すでに異民族が、エルサレムの地に住んでいました。それに追い討ちをかけるように、飢饉や病気が帰国の民の中に広がり、人々は疲れ果ててしまっていたのです。そのような状況の中、帰還した民らが第一に優先したことが、エルサレム神殿の再建でした。(その辺の経緯はエズラ記、ネヘミヤ記、ハガイ書、ゼカリヤ書を参照してください。)
まさしく絶望の状況、もう、立ち上がることのできない現実を前にして、気を落としていた詩人の目に、畑に種を蒔く一人の農夫の姿が入ってきました。その農夫は、泣きながら畑に種を蒔いていたのです。その農夫に、どういう事情があるのか分かりませんが、涙と共に種を蒔いていた農夫の姿は、詩人に大きな感動と共に、イスラエル共同体に求められる、神の御心を教えてくれたことでしょう。普段、私たちが考える「種を蒔く」ということは、希望の現れとして、豊かな収穫を夢見ながら行う行為です。ですから、「種を蒔く」ことと「涙を流す」ということは、なかなか結びつかないでしょう。大切なことは、農夫が涙と共に種を蒔いているということでした。
涙と共に種を蒔きつづける農夫の姿は、コロナ危機の中で、新たな歩みを始めようとする私とあなたにも、大きなチャレンジとなってくれます。コロナ危機の中で希望を失い、疲れ果ててしまっている私たちの隣人、また日本と世界の死に行く人々のために、あなたは何ができますか、あなた方は信仰と希望の種を蒔けますか、と。
主イエスは、私たちキリストの農夫たちの涙を喜ばれます。その涙を一滴一滴集められ、神の国と神の業の栄養分として用いてくださるでしょう。キリスト者にとって、涙を流して種を蒔く時こそ、祈る時であって、礼拝の時でしょう。私たちが神の助けを求めるために、一人で主の前にひざまずき祈る時、また自分自身をいけにえとして献げる生きた礼拝を献げる時、主イエスは、心から込み上げてくる涙を、恵みとして与えてくださるでしょう。ハレルヤ!
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