2021年5月3日月曜日

2021.5.2 本日の宣教

 『 傷ついた葦を折ることなく 』(イザヤ4214)    

今日の聖書の御言葉は主イエスが生まれる700年も前の時代、預言者イザヤを通して語られた「主の僕」への預言の言葉です。特に、今日の御言葉には、主イエスによって成就される救い主の姿が描かれています。

“傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。(34節)”

まず、「傷ついた葦を折ることなく癒される主の僕」の姿を描いています。葦という植物は、当時のエジプト、パレスチナ地方に多く見られていたものです。とりわけ葦は、弱く、少しの風にも揺れ動き、すぐ折れてしまいそうな姿から、聖書の言葉はもちろん、世界の詩や小説など、文学の中においても、弱い人間の姿を表す時によく使われてきた植物です。ここの「傷ついた葦」という表現は、文字通り「半分ぐらい折れている葦の状態」の意味で、精神的・肉体的に回復できないほどの打撃を受けた人間、特に、罪の中で汚れてしまった人間の状態を表しているのです。実に、折れてしまった葦はどこにも使い道がないので、そのまま折って捨ててしまっても不思議ではない。しかし、主の僕は、傷ついた葦のような一人一人の弱くみすぼらしい人との関係の中で、彼らを癒されるという表現を通して、主イエスがいかに優しく、愛に富んでおられる方であるかがよく分かります。

次に、「暗くなってゆく灯心を消すことなく守られる主の僕」の姿があります。当時のイスラエルの民の生活において無くてはならない物の一つが「灯心」でした。この灯心も、当時の聖書や古代の文学によく用いられていたもので、人間の希望、命を表現する時によく用いられていた概念です。特に、「暗くなってゆく灯心」というのは、「風前の灯火」というコトワザと殆ど同じ意味でしょう。夜の闇は深くなりつつあるのに、先ほどまで周りを照らしていた灯心が、油がなくなり、また風が強まることで、だんだんと勢いを失い、今にも消えてしまいそうな「灯心」の姿なのです。その消えそうな灯心の姿から、私たち人間の弱さが見えるのです。すなわち、この世界の中で希望の光をなくして生きている暗闇の人々にイエス・キリストが真の光となってくださり、永遠になくならない油で燃やしてくださることが約束されているのです。

イエス・キリストは、あらゆる苦しみを知っておられ、傷つけられ、十字架にかけられ死んでくださった。そのことによって、今にも折れそうな葦のような私たちを癒すことができ、強めてくださることができるのです。そしての主イエスは、絶望だと、失敗だと、不可能だと思われた十字架の死を打ち破り、復活を通して真の勝利と希望を示されたのです。ですから、私たちの弱さは、十字架の強さを体験できる恵みの通路に変わるのです。主イエスは今日も “どんな傷でもいい、どんな失敗でもいい、どんな痛みでもいいから、わたしの前にきて癒されなさいと優しく声をかけられます。

神の家族の皆さん、私たちを取り囲む現実は、少し傷があったら折って捨ててしまう社会、一度失敗したら待ってもらえず取り残される社会、小さな憐れみも、慰めも、赦しも見出せない状況です。しかし主イエスは、傷ついている葦のような私たちを折ってしまったり、あきらめたりはなさらず、今にも消えてしまう灯心のような私たちを支え、励まし、希望の光を与えてくださるでしょう。互いの弱さを愛し合い、喜び合える神の家族であるように…。ハレルヤ!

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