2021年5月3日月曜日

2021.4.11 本日の宣教

『 私は永遠の命を信じます 』ヨハネによる福音書31617)

使徒信条で告白されている「復活」は、誰かが作り出した物語ではありません。しかもイエス・キリストの復活は、死から復活された主イエスが弟子たちにご自身を現されたこと、その復活の主イエスを弟子たちが直接目で見、彼らの耳で聞き、また彼らの体をもって体験した結果として出来上がった信仰告白であります。

 もちろん、弟子たちも主イエスが十字架の上ですべての血を流し、死なれたことを知った時は、“もう終わりだ!イエスは死んだんだ!”とあきらめていましたし、誰一人復活の預言の御言葉を素直に受け入れる人はいませんでした。しかし、主イエスが死んだ後三日目に死の力を打ち破り復活され弟子たちの前にご自身を現された時に、弟子たちは時と空間を超えた永遠の中におられる主イエスの復活の体、復活の姿を見届けることができたのです。

そして、興味深いことに、復活された主イエスの体が、以前の自分たちと触れ合っていた体とは全く違う体であることに気づきます。もちろん、主イエスの体には「やりに刺された脇腹の傷、また手と足の釘跡」が残ってはいましたが、主イエスの体は以前彼らが触れていた体ではなかったのです。すなわち、聖書が証している復活のイエスの体は、罪とは関係のない体、聖なる神との完全な和解が成立し、すべてが赦され新たにされた栄光の体に変えられたわけです。同じく、主イエスによって救われ神の子とされた者は、「栄光から栄光へ」と主と同じ姿に変えられ、この世で味わっていた涙や痛み、哀しみはもうなくなり、全く違った体、栄光に満ちた姿に復活し、ただ喜びと希望と恵みによる讃美で溢れる永遠なる体で神の御前に立つことができるのです。使徒信条を締めくくる「復活と永遠の命」への告白は、希望と栄光に満ちた神の国における確かな約束への信仰告白であります。

最後に、救われた神の子どもにとっての「永遠の命」の祝福は、ただ将来に与えられる希望で終わるものでなく、今すでに私たちのうちに始まっていて味わうことができることを覚えましょう。私たちは地上と天国、この世の時間と永遠とを対立的に捉えがちですが、聖書の教える永遠とは、現在の私たちと切り離すべきものではなく、イエス・キリストを信じ、罪赦され、神の子とされた時から、すでに私たちは神の国の永遠の命を生き始めるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ316)」…この御言葉こそ、神の独り子によって示された神の愛と永遠の命を受ける将来の天国の約束であると同時に、現在の救われた神の子たちが味わって生ける言葉でもあることを忘れてはなりません。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。(ヘブライ1112)」…過去2000年の間、主イエスの十字架と復活の証人たちは、使徒信条を告白しながら、その信仰にすがることで、度重なる現実の困難や試練を乗り越えることができ、その信仰のゆえに勝利を手にすることができたのです。共に「アーメン」という応答をもって永遠の歩みを続けましょう。

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