私が小学生の頃は、学校で予防接種を受けていました。その中でも「火の注射」と言われたものは、火で熱した針で注射するという、子どもには最も恐ろしいものでした。当時は現在のように医療技術薬が発達していなかったので、注射を受ける時は激しい痛みがあり、受けた後しばらくの間は膿ができて苦しんでいたことを覚えています。しかし、この一瞬の苦しみを経て接種が終わると、その病気に対する免疫力が高まり、たとえその病気にかかったとしてもさほど苦しまず、大事に至らないわけですから、そのありがたさは大きかったと思い出しています。
このような経験は私たちが試練を受ける時に得る恵みについて教えてくれると思います。神は私たちの人生において試練や苦難を通して私たちを神の御心にふさわしい者に整えられます。しばらくの間の苦難による痛みや悲しみは大きいものですが、やがてそれは予防接種のような役割を担うことを悟らせてくださるのです。受ける瞬間は痛いですが、その痛みと試練を通して私たちの健康と幸せが守られるからです。
私たちに試練がやって来る時、忘れてはならないことがあります。それは、神が許されなければ、どんな試練も私たちにやってくることはないという事実です。そうです。天の父の許しがなければ、神の子どもたちの髪の毛一本さえ地に落ちることはありません。父なる神は神の子どもたちを愛し、いつも助けてくださるお方、だから試練がやってくるとき、私たちはその試練に潜んでいる神の御心をよく黙想すべきなのです。そして父なる神が望まれる御心と方法で試練に立ち向かわなければならないのです。
次に、神は試練を通してかたくなな心を砕き神の御前にすがることを学ばせてくださると覚えましょう。もちろん、試練に遭えば遭うほどもっとかたくなになる人もいますが、多くの場合、試練に遭う時には自分自身の高慢、虚栄心など弱さに気づかされ、今まで求めてきたものがいかに空しいかを知らされることになるでしょう。その時、人は真の神を求めるようになり、神との新しい次元の関係を結ぶことになるのです。そうです。「弱さの中で味わう真の強さ」をこそ、主イエス・キリストとの人格的交わりを通して得ることができます。
だから本日の聖書は試練に遭うキリスト者に向けて、その試練を喜びとしなさいと勧めているのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(ヤコブ1:2~4)…そうです。知恵あるキリスト者はどのような試練に遭っても揺るぎません。彼らはいつも神の知恵と導きを求めます。だから忍耐できますし、神の約束を信じて一歩踏み出すことができるのです。受難節を過ごす神の家族を襲った試練がありますか。その試練を通して強められることを期待しましょう。ハレルヤ!
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