『 高ぶる者、へりくだる者』 (ルカによる福音書18:9~14)
今は受難節です。本日の御言葉は、今から2000年前、主イエスがエルサレムに入城されてからの受難週のうちの火曜日に周りに集まってきた人々に語られた内容です。
本日の物語で主イエスは、ファリサイ派の人と徴税人の二人の祈りを対比しておられます。当時のファリサイ派の人々は一般の人からとても尊敬されていて、律法を誠実に守る聖なる人として認められていました。その反面、ローマ帝国に仕えていた徴税人の方は、最も罪深い存在として、イスラエルの人々からは汚れた存在、嫌われていた人と見なされていたので、その徴税人が祈りに神殿に行ったこと自体が珍しいこととして受け取られていたでしょう。
同じく神殿に集い、祈りを献げていた二人でしたが、二人の祈りの内容と態度は全く違うものでした。まず、ファリサイ派の人の祈りは長かったし、その祈りの主語は「私」であったことが分かります。しかし、徴税人の祈りはシンプルで短かったし、その祈りの主語は「神様」でありました。また、ファリサイ派の人の祈りは、他の人との比較の中で、彼の関心は人、すなわち人間社会の横の関係ばかりに関心がいって、人の方に目を向けていたことが分かります。しかし、徴税人の関心は、天の神様、すなわち神様との縦の関係に向けられていました。
とりわけ、ファリサイ派の人の祈りは「自分の義」を自慢する内容を並べることになっていることが分かります。まず、律法が「やるな!」と言われていたことに合わせて、自分はその罪を犯してなかったことを並べ、続けて、神の前で自分を誇れるような信仰行為、すなわち、断食のことや十分の一の献金生活に徹底していることを自慢するように祈りに加えていました。
しかし、ファリサイ派の人の祈りとは対照的に、徴税人は遠く離れて立ち、目を天に上げようともせず、自分の胸を打ちながら、自分自身が罪人であることを告白し、神の憐れみを乞い求めている姿を見ることができます。この徴税人の祈りは詩編の中に記されている神が喜ばれる礼拝者の姿勢を反映していることが分かります。…「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる(詩編34:19)。」続けて、「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません(詩編51:18)。」… 徴税人は自分が罪人であることを告白することで、神の前で義とされたことを主イエスによって認められたのです。神の家族の皆さん、礼拝や祈りの究極の目的は何でしょうか。それは、神に出会うことであり、神の御前で真の自分自身に気づき、神から義と認められることにあります。
主イエスはたとえ話を終えながら、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と言われます。私たちは、このたとえ話を通して主イエスが望まれる礼拝者、望まれる奉仕者の姿を知ることができます。とりわけ、次週は小泉町教会の2022年度の奉仕の先頭に立つ5人の執事を選ぶことになります。願わくは、神の前に高ぶることなく、常にへりくだり、神の憐れみと助けを乞い求める中で、神に義と認められる神の家族お一人お一人であり、執事の皆さんでありますように…。ハレルヤ!
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