2022年3月30日水曜日

2022.1.9 本日の宣教

 『 主が望まれる教会① 』~エフェソ教会①~   (ヨハネの黙示録2:1~7)

「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:4~5)

使徒ヨハネはローマのドミティアヌス皇帝のキリスト教会への迫害が行われた時にパトモス島に捕えられていました。しかし主イエスは、捕らわれていたヨハネに終末へのビジョンを教えてくださいます。とりわけ小アジアの7つの教会への啓示の御声を書くようにと命じられます。ここで「7」という数字は聖書の中で完全数であるため、7つの教会は初代教会を代表する7つの教会を意味していて、また、歴史の中で立てられていた教会、それに加え、これから立てられていく世界中の教会を意味しているものであるでしょう。だからこそ、私たちは7つの教会に向けられている主イエスの御声を通して、今現在の教会向け語り掛けられる御声を聞かなければならないのです。

主イエスは、最初エフェソ教会に向け称賛の言葉を語られます。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている・・・、あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」(2:2、3)      エフェソ教会は、使徒パウロの2次、3次の伝道旅行の時、最も長い時間をかけて福音を教えた教会でした。エフェソは政治、商業、宗教における小アジア最大の都市で、「小アジアの花」と呼ばれるほど栄えていた町でした。エフェソ教会も、小アジアの中心教会として様々な役割を担っていて、多くの迫害と試練に遭っていて、主イエスはエフェソ教会の長年に亘る「行いと労苦、忍耐を知っておられる」と言われます。「主イエスが知っておられる」、キリスト者にとって、この言葉ほど力になる言葉はないでしょう。ここで、「疲れ果てることがなかった」とは、実際、エフェソの教会が耐えられないほどの困難に遭わされていたことを指しています。いろいろな試練に遭いながらも、神と教会のために最善を尽くして仕えている教会と信徒たちの労苦と働きを主イエスが知っておられることはいかに幸いでしょうか。

続けて主イエスは、エフェソ教会が「悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」と称賛されます。当時のエフェソは、至る所に偶像が立てられていて、様々な偽りの教えで満ちていた町でした。そんな中で、エフェソ教会はにせ使徒や偽りの教えに対してしっかりと分別し見抜くことができるほど、揺るがない信仰をもって奮闘していたのです。その奮闘ぶりを主が知っておられることはいかに素晴らしいことでしょうか。そのために、彼らはしっかりと御言葉を学び、真理の上に立つ生活を心がけていたのです。

しかし主イエスは、エフェソ教会が「初めのころの愛から離れてしまった」と厳しく責めておられます。「愛」は主イエスが教えられた最も重要な戒めであり、至上命令でありました。聖書は、「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ、無に等しい」ことを教えています。神の家族の皆さん、愛のない礼拝、愛のない奉仕、愛のない言葉、愛のない施し、愛のないあらゆる事柄は神に喜ばれませんし、命がありません。主イエスは、愛なしで行うすべての奉仕や働きを悔い改め、初めのころの愛に戻らなければならないと叫ばれます。そうです。愛がなければ、その他のすべては無意味になるのです。・・・あなたの信仰生活の源は何でしょうか。愛の感動によってなされているでしょうか。主イエスが求められるのは愛です。主に初めて出会った時の愛による感動、愛の心を取り戻すことです。主イエスが望まれるのは過去も、現在も、未来も一貫しています。愛を回復しましょう。ハレルヤ!


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