『 鎖につながれた希望 』(使徒言行録28:17~20)
こうして愛する富山小泉町教会の皆さんと、久しぶりに礼拝をおささげする事ができることを心から主に感謝したします。いつも私たち家族の為に執り成し祈ってくださっていること本当にありがとうございます。この度5年間の牧会した野方教会を辞任して、新たに招聘をいただいた山形教会へと転任することとなりました。たとえ仕える教会が変わったとしても、どこに行こうとも、富山小泉町教会で養われた信仰をもって、主と教会に謙遜に、忠実に仕えていきたいと願っています。
さて、このコロナ危機を生きる私たちですが、一体どこに希望を見出せばよいのか分からないような日々を過ごしています。まるで何重にも鎖が巻き付けられたような不自由さを味わっているわけです。小泉町教会におかれましても、十分に教会の宣教活動ができずに、感染予防の観点から自粛せざるを得ない状況であったと思います(現在進行形で)。コロナの影響によって世界中のキリスト教会もまた、問われ続けています。聖書が教えるように、初代教会は、人々が一つの家に集まり、心を一つにして祈り、一緒に食事をとりながらその信仰を育んでいきました。教会の原点は「共に集まる」ことから始まっていると言えます。共に顔と顔とを合わせ、共に手を取り合い、共に祈り、共に賛美し、共に聖書を読み、共に食卓を囲む。そのような愛の交わりこそ、教会の何にも勝る大きな特徴であったと思います。ところが、私たちがコロナによって経験した変化は、「共に」が遮られて、「集う」ことを控えなければならない現実でした。
パウロも危機の中で、鎖に繫がれながらも、福音を宣べ伝えました。そしてそこに神さまの不思議な導きがあったのです。私たちも希望を捨てず、コロナ禍においても、イエスさまの愛と福音が1人でも多くの人に宣べ伝えられることを期待して歩みたいと思います。
宮田 祐亮
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