『 主が望まれる教会① 』~エフェソ教会②~ (ヨハネの黙示録2:1~7)
先週から、「主イエスが望まれた教会」について分かち合っています。その最初の教会として、エフェソ教会への主イエスからの称賛と叱責について学んでいます。本日は先週につづき、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」((2:4~5)という内容をもう少し詳しく見たいと思います。
「初めのころの愛」とは、初めて福音をいただき救われ、イエス様と人格的な関係を結んだ時の感激、その感動に満たされていた愛のことです。神の独り子が、私を愛し、罪深い私のためにすべての苦しみ、痛み、悲しみをご自身の身に受けて、十字架にかかり私のために命を捨ててくださり贖ってくださった。その愛を知りその愛に触れた時、私たちはイエス様の愛に燃えていたはずです。皆さんもその時の感動をもっているはずです。…しかし、時間の流れと共に、その感動は薄れていき、いつの間にか「初めのころの愛」は、「ただ、幼い信仰の時の未熟な感情にすぎない」が、今はたくさんの聖書知識や成熟した信仰者として落ち着いた日々を生きていると自負するキリスト者も多いでしょう。しかし、主イエスの御心はいかがでしょうか。むしろ、主イエスは「あなたとの初めのころの愛」を求むと言われる。
主イエスは、「初めのころの愛がどこから落ちたのかを、あなた自身が思い出しなさい」と迫って来られます。一度主イエスの愛に触れた人であれば、今愛が冷えてしまった理由がどこにあるのかを知っているはずだと。そして、どこからその愛が落ちてしまったのかを思い出さねばならないのです。そこから、悔い改めて主の御前に立ち帰ることができるからです。
ここには、主イエスによる「愛の回復の三段階」が記されていますね。まず、「どこから愛が落ちたのかを思い出すこと」、次に、「思い出せたなら、悔い改めて主イエスの前に立ち帰ること」、最後に、「初めのころの行いに生きること」です。 ご存じのように、「悔い改め」とは、今まで生きてきた自己中心だった歩みの方向を変え、主イエスの方に向きを変えて歩むことを指します。すなわちこの言葉には、「悔いる」という感情的な後悔にとどまるのでなく、「改める」という「決断とそれに伴う行い」までが同時に起きなければならないことをも含んでいます。「初めのころの愛」は、「初めのころの行い」につながり、その二つが一つとなるところに主イエスの命の実が結ばれるのです。そうです。エフェソ教会と今の私たちが取り戻すべき初めのころの愛は、抽象的なものではなく、行いを伴う具体的なものであることを忘れてはなりません。主イエスが望まれる愛は、言葉や口先でするのでなく、行いと真実をもって示されるものです。
最後に、「耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」(7節)と締めくくります。もともと、「耳のある者は聞きなさい」という表現は、福音書で主イエスが大切な教えを語られた後に繰り返された言葉でした。それに、「聖霊が諸教会に告げること」という言葉を加えることで、主イエスの言葉が、聖霊によって語られる言葉であることを確かにしています。聖霊は神の人に常に語りかけておられます。ですから、ここで「聞く」というのは、ただ耳で聞くことで終わるのでなく、常に霊的なアンテナを立て聖霊の御声を聞くことであって、御声を聞いたならば、その御声に従うことをも含んでいることを覚えましょう。2022年の神の家族の一人一人が、御言葉の土台を確かめつつ、再び愛に燃え、聖霊の御声に従うことができますように…。主イエスからの豊かな命の木の実を結びましょう。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿