~今こそ行いによる信仰を示すとき~
“行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」(ヤコブの手紙2:17~18)”
牧師になってから多くの人にバプテスマを授けてきました。その度毎に、創造者なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神への信仰告白と共に、罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の贖いの愛と復活を真心から信じることによって神の子とされ、神の国の永遠の命が約束されていることを学ぶ時をもちます。その後、信仰の証しを信仰共同体の前で確かめることによってバプテスマ式を執り行ってきたのです。
しかし、私がバプテスマの度に抱く課題として、その人の唇による信仰告白でしか、その人の信仰を確かめることができないということでした。だからといって、その人の行いを何年もかけて確かめてから、バプテスマを授けることもおかしな話になるでしょう。救いは行いではなく、信仰によって与えられる恵みだからです。結局は、神とその人だけが知っている信仰によって救いが決まるということでしょう。たとえ牧師であっても、その人が救われているとか、救われていないとかを決定し、宣言することはできないからです。救いのことは100%神の恵みの領域であるからです。
私たちは「正しい人は信仰によって生きる」という言葉に慣れ親しんできました。確かに信仰によって救われるという事実は誰も否定することはできません。では、その信仰の真偽を何によって判断することができるでしょうか。しかしヤコブは、信仰を判断する基準を行いにあると告げます。信仰にふさわしい行いが伴うとき、その信仰は真実なものであると。口では「信じます」と言っても行いが伴わないなら、あるいは信仰を否定する行いをするならば、その人の信仰は偽物なのかもしれません。
新型コロナ、気候変動、戦争、飢餓、共同体崩壊など、主イエスが言われた終末に起こるはずのしるしを目の当たりにしている今日です。今こそ、キリスト教会と私たちキリスト者は、御言葉に基づいた行いによる信仰を世界に示すべき時、キリスト者としての真骨頂が問われる時、神の子としてのプライドを、生きた行いをもって指し示すべき時です。シャローム!
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