2022年3月30日水曜日

2022.2.27 本日の宣教

 『 “喜びの遊び”~福音の種をまく人~ 』

わたしの目には、あなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し‥。(イザヤ書43:4)

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピの信徒への手紙 4:4)

私が少女時代を過ごした名古屋は、子供の私にとって楽しさとワクワクと優しさに満ちた場所でした。子供たちは学校から帰ると、誰が言うでもなくいつもの場所に集まり、みんなで相談して何をして遊ぶかを決め、力いっぱい体を動かして夢中で遊んでいました。一方で、虫や植物を観察したり、本を読むのが大好きだった私は、本が沢山ある友達の家で心ゆくまで本を読んでいました。そんな幸せな日々の中で、とても大切な一冊の本に出合いました。それが「少女パレアナ」です。あらすじをいうと少女パレアナは母と牧師である父を幼くして亡くし、遠く離れた叔母に引き取られます。叔母は大金持ちですが、心がかたくなで冷たくなっていましたし、村にも問題を抱えた人々が沢山いました。しかし、生前父から「聖書には800もの喜ぶがある」ということから始められた「喜びの遊び」をずっと続けていたパレアナは、ピュアな心でその喜びの遊びの種を村中にまき続け、その種が芽を出して育ち、叔母だけでなく問題のあった村を喜びの村に変えていく話です。

わたしたちは生きていく中でさまざまな出来事に出会います。楽しく嬉しいこともあれば、辛く悲しいこともあります。また、自分はダメな価値のない人間だと思い自信を無くしてしまうようなこともあるでしょう。

でも考えてみれば、私を見つけ出してくださった主が、「わたしの目には、あなたは価高く貴く」と言われ、続いて、「私はあなたを愛し…。」と言って下されば、「何と感謝なこと!」といって大喜びするところでですから、主が愛してくださっていることを思い出し、どんな自分も好きでいようと思わずにはいられません。                                          

御言葉を知ることは、神を知ることであり、私たちには、大きな喜びであり生きる糧となります。それゆえに、主は私たちに、どんな時でも「主に於いて常に喜ぶ」ことを望んでおられるのではと思います。私たちは時として喜ぶことを忘れ、ネガティブな感情に飲み込まれてしまう事があります。そんな時、そんな状況でも喜びと感謝を見つけ出せば、ポジティブな心を取り戻すことができるのです。その本と出合ってから、喜びの遊びを続けている私ですが、長い年月を経て教会に導かれ、御言葉に触れるうちに聖書には喜びという言葉が溢れていることを自分の目で知ることができました。今、聖書を読む日々の中で、聖書は究極のポジティブ本ではないかと思っています。聖書には私たちを励まし、希望と元気を与え、生きてゆく知恵を頂ける言葉が数えきれないほどぎっしりと詰まっています。それは命の箱であり、宝石箱であり、時にはびっくり箱でもあります。そしてその中には800もの喜びという御言葉が溢れています。     

主が一人一人に与えてくださった聖霊様に助けられ聖書を読み、瞑想し祈る私たちが、主に於いて常に喜び、その喜びの種を、少女パレアナが「喜びの遊び」という福音の種をまき続けたように、私たちも今、喜びの種を携えて周りの人々や隣人に喜びの(福音の)種をまく力が与えられますように祈ります。

                        S.Y. 姉

0 件のコメント:

コメントを投稿