2022年4月3日日曜日

2022.4.3 本日の宣教

 『 世の罪を取り除く神の小羊 』(ヨハネ1:29、イザヤ53:6~7)

近年、イエス・キリストの十字架の贖いの死を認めない動きがあります。すなわち十字架が神の御心ではなく、ただ当時の政治権力による暴力によって殺されたのだと主張します。しかし、どうでしょうか。イエス・キリストの十字架を神の御心でないとすれば、十字架を誇るというキリスト教会とキリスト教信仰はどうなるでしょうか。十字架の信仰を否定することは、旧新約聖書の御言葉と主イエスの救いの御業を否定することになるでしょう。また、私の信仰の中心に立っている十字架による感動と恵みを消してしまうことになるのです。                                                  

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(ヨハネ1:29)。」… これは、バプテスマのヨハネが、主イエスを紹介した最初の言葉です。ヨハネはなぜ「小羊」という言葉で主イエスを表現したのでしょうか。偶然、頭に浮かんできた動物を表しただけでしょうか。ここで、彼が「世の罪を取り除く小羊」と言った時、恐らく彼の頭には「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった(イザヤ53:6~7節)。」というイザヤの「いけにえとしての小羊」として来られるメシアを根拠としたことでしょう。すなわち、罪人たちの罪の重荷をすべて背負われて屠られる小羊、しかも、その小羊は、受身的にただ、死刑の刑罰を受け入れたのではなく、自ら選び、進んでその命を献げ、最後の血の一滴までも世の人々のために注ぎ尽くされた小羊となられたのです。 

私たちキリスト者は、主イエスの十字架によって贖われ赦された存在です。十字架こそ、罪の中で滅んでいく人類を救おうとされた神のご計画でした。主イエスは、聖書に書いてある通り、神の独り子としてこの世に生まれ、ご自身の体をもって、全人類を救う贖いのいけにえとなり、赦しを得るための救いの道を開いてくださったのです。そしてその十字架で死なれた主イエスのゆえにすべての人を赦すことができます。 

愛する神の家族の皆さん、真にこの世は罪と汚れに満ちています。どこを見ても罪に汚れ悪に満ちています。何より、私たちの心が罪で汚れていますし、常に欲望と自己中心に満ちて神に背く性質をもっているのも事実です。そんな互いの欲望と自己中心というものがぶつかり合っているのが世の中ですし、その中で傷つき、傷をつけ合っている私たちです。しかし、主イエスは、私たちの欲望と自己中心の罪を打ち砕き完全に取り除くために十字架にかけられ、ご自身の体を裂いて、最後の一滴の血までも注ぎ出し死んでくださったのです。それゆえ、私たちは聖められ救われる道が開かれたのです。

願わくは、神の小羊なる主イエスの救いの御業を褒めたたえ、十字架を見上げる神の家族の日々でありますように…。罪の力に負けそうな時、“主よ、私の罪を取り除いてください”と祈りつつ御前に近づきましょう。ハレルヤ!


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