主イエスの御言葉のうち、浮彫りになる概念の一つが、「小さなものの素晴らしさ」ではないかと思います。主イエスはいつも小さなものの価値を強調されます。私たちの生きている世界は、大きいものの価値を強調し、多さに目を注ぎます。しかし、主イエスは小さいものを大切にされ、小さな人を愛されます。本日の御言葉に登場する「からし種一粒」がそうですし、“ごく小さなことに忠実な者”、また、“2枚のレプトンを献げたやもめの信仰”、“一人の少年が献げた5つのパンと2匹の魚の小さな献身”などを主イエスは大切に語られたのです。そうです。主は、常に、小さなもの、小さな人の忠誠を喜ばれ、神の国のために用いられるのです。
しかし、主イエスが語られる小さなものが、本当に小さなものなのでしょうか。主イエスが言われる「小ささ」は私たちの目に見える形としての小ささ、また、量としての小ささを意味するのではありません。主イエスは、「わたしどもの信仰を増してください」という弟子たちの願いに対し、彼らにどれくらいの信仰があるか、以前に比べて信仰がどのくらい増してきたのか、ということに関心がありませんでした。むしろ、その人のもっている信仰のあり方について関心をもっておられることが分かります。すなわち、弟子たちが信仰の量に目を奪われることなく、彼らのもっている信仰がからし種一粒ほど小さいという信仰の謙遜さと自らを僕に過ぎないという信仰を身に着けて生きることを望まれるのです。
愛する皆さん、私たちはどれほど小さなものでしょうか。どれほど弱いものでしょうか。この世界の巨大さ、その堅い壁を前にして私たちは小さくなってしまい、何もできない自分自身に失望しがちです。そのような傾向は信仰生活にも及んでいるのかもしれません。しかし、これは信仰を量で測ろうとしていた弟子たちの思いであって、決して主イエスの御心ではないことに心を定めましょう。私たちの主イエスは、私たちの小さな信仰の中に潜んでいる素晴らしい力をご存知ですし、その信仰の小ささを通して成し遂げられる大いなる奇跡を描いておられるのです。ただ、私たちに求められるのは、「からし種一粒のような小さな信仰の持ち主としての謙遜さと信仰の確信」、それだけで十分です。
主イエスの弟子は自分の小ささを誇り、自分の弱さを誇ります。その人は、目に見える現実につまずいたり失望したりすることはありません。たとえ、どんな厳しい状況に置かれていても、その人は小さな信仰の祈りによる神の御業を信じ、ゆだねることができるからです。ぜひ、神の教会は最も小さな一人一人の信仰が合わせられて、大いなる神の国の御業が起こせることを覚えましょう。小さな者たちの小さな祈りがもたらす奇跡を期待しつつ、主イエスの御教えに耳を傾けることができる神の家族でありますように・・・。ハレルヤ!
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