『陶工と粘土』 (イザヤ64:5~8)
「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。(イザヤ64:7)」
聖書の中では、神と人との関係を「陶工と粘土」にたとえている場面が何度も描かれています。陶工と粘土の関係を用いることが創造者なる神と被造物である人間との関係を説明するにふさわしいからでしょう。
神は「土」で人間を創造されました。 「アダム」という、最初の人間の名前が、「土(アダマ)」と同じ意味を持っていることからもよく分かります。「土」とはホコリやホコリの固まりでできているようなもので、まったく価値のない存在です。土そのままでは何も起こりませんし何の価値もありません。しかし、創造者なる神はこれらの何の価値のないものを選んで、創造された被造物の中で唯一、神の形に似せた最も栄光ある存在として尊く造られたのです。
特に、本日のイザヤ書64:7で、神を陶工と紹介される時、すべての人は、創造者なる神の特別な目的と意図をもって造られたことが分かります。陶工が一握りの粘土で何かを作る時、意味なく作ることはしません。その通りイザヤは、陶工の手によって作られるすべての器は、明確な意図と目的を持っているように、陶工なる神は、神の民一人一人を確かな意図と目的を持って造られたことを示しているのです。ですから、陶工なる神はご自身が作られた器が、ご自身が抱いておられた意図通りに用いられる時に最も喜ばれるはずです。
また、作られた器が自分自身を作ってくれた陶工に向け、「なぜ私をこんな形に作ったのか」と、「私はこの世に現れたくなかった」と抗議することもできないのです。作られたものは、ただ、作ってくださった方に感謝し、作られた目的と計画に従順に従わなければならないのです。
しかもイザヤは、御言葉の中で、イスラエルの神について、「我らの父」と呼ぶことで、神との関係を陶工と粘土という一方的関係ではなく、人格的に結ばれている関係であることを示します。さらに、最高の陶工である父なる神は、粘土のような無価値な私たちを用いて素晴らしい作品を作られるというのです。むやみに作るものはなく、父としての繊細な愛の御手の中で、神の子どもという貴い器として作られるというのです。「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか。(ローマ9:21) 」…そう、すべては御心による御手の業です。
私たちの父であり、素晴らしい陶工である神は、今日も粘土である私たちを触ったり、直したりされながら、新しい作品として作り上げておられることを覚えましょう。もう一つ忘れてはならないこと、「私たちは完成した存在ではない」ということ、だから父なる神は御手をもって今日まで私たちを作って来られたように、これからも貴い器として作ってくださり、御業のために用いて行かれるに違いないということを信じるのです。ハレルヤ!
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