『すべての壁を取り壊すイエス 』 (エフェソの信徒への手紙2:14~22)
人はいつも壁を作って生きています。自分が作る壁もあれば、自分も知らないうちに作ってしまう壁もあります。最初に壁を作るときには、その壁が自分を守ってくれると思って作りますが、時間と共にだんだんとその壁に閉じ込められてしまう自分に気づくようになるでしょう。
この壁は、人と人の間、国と国の間、民族と民族の間、人種と人種の間、宗教と宗教の間、男と女の間、・・・それから、何より神と人との間に出来上がった隔ての壁によって、わたしたちは寂しく苦しい人生を生きているわけです。聖書は、人が造るその壁こそ「罪によってできてしまった壁」だと教えます。
「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザヤ59:1~2)」と愛なる神の切なる叫びが記されています。
本日の御言葉は主イエスを「壁を取り壊す方」として紹介しています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(2:14~16)」・・・ある神学者は主イエスのお働きを一言でこのように定義しています。“境界線の真ん中を分けられるお方”と。つまり、“男と女、義人と罪人、健康な人と弱い人、エルサレムとサマリア、ユダヤ人と異邦人”など、主イエスは個人や群れ、共同体の関係の間を歩まれながら、ありとあらゆる壁を取り壊す生涯を歩まれました。それぞれ、点であった人たちを線へと、また、面へと繋いでくださったのです。どうしても一つになれないような人たちを出合わせ、一致の心を与えられ、今まで知らなかった互いの尊さと美しさに気づくように導いてくださったのです。
主イエスが生まれた時から夢見ておられたことは、世界のすべての人が神の子どもとして、互いに愛し合う世界でした。強い者が弱い者をいじめることなく、強い国が弱い国を支配することもない世界、知識を持っている人が知識をもってない人を無視することなく、すべての人が神に愛される資格のある神の子どもとして愛し合い、尊敬し合う世界、そのような神の国が実現することでした。そのような共同体を「オイクメネ」と言います。これは、“家、家庭、世界”を表すギリシャ語で、神の命の息吹を分け合う多様な人々が共に過ごす所、つまり、神の家、神の庭園という意味なのです。主イエスは、世界のすべての人が神の家で親しく交わりながら、共に愛し合い、喜び祝うことを望まれ、主イエスは人々が作っておいた分離の壁を取り壊すために、ご自身の体を十字架で裂かれました。その十字架を通して神と人を和解させ、人と人を平和に生きるようにとつないでくださったのです。ハレルヤ!
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