2020年11月29日日曜日

2020.9.27 本日の宣教

 『 人生の宝探し 』 (詩編19:8~15)

 “主の御言葉は金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。”(19:11

あなたは一日を始める朝、何から始めていますか。もしかしたら、その日のうちに処理すべき事柄で頭がいっぱいになり、常に慌ただしく始めているかもしれませんね。またある人は将来への不安に覆われながら一日を始めようとしているかもしれません。また人間関係の苦しみによって一日の一歩を踏み出すことを躊躇している人もいるでしょう。もちろん、与えられた新しい一日を感謝し、また期待しながら始める方もいるでしょう。皆さんはいかがでしょうか。

新型コロナウイルスによって生活の多くが変わってしまった時代を生きている私たちです。何となく人との交わりも少なくなり、在宅勤務、オンライン会議、オンライン授業など、家にいる時間が長くなっていくはずです。その中で、一人の時間も長くなると思います。その時、神の家族に勧めたいことが「ディボーション(聖書黙想)」です。キリスト者は神の前に一人になることを喜ぶ者であり、孤独を楽しむ存在です。孤独を楽しむ理由こそ、聖書の御言葉を黙想する素晴らしさを知っているからです。たとえ無人島に漂流することがあっても、御言葉さえあれば、その場所が恵みの場所に変わるはずです。御言葉に養われた人は、コロナ後の世界で神の御心を鮮明に表すことになるでしょう。

聖書は、神の御言葉は人生の道を照らす灯であり、宝石であると教えます。私は宣教や学びの中で、たびたび聖書を黙想することは“宝石探し”であると語ってきました。そうです。毎日、御言葉を黙想し、与えられた御言葉を口ずさみ、御言葉を生きる人は神からの宝物をいただきます。実は、本日の詩編19編を書いたダビデも神の御言葉が純金にまさる宝石であることを歌っています。私はぜひ、小泉町教会の神の家族にこの値高い宝石をプレゼントしたい思いでいっぱいです。

これからも私たちは様々な道を歩くことになるでしょう。苦難の道、初めて歩く不安な道、危険な道、また、一歩先も見えない深い暗闇の道、広々とした平らな道など・・・。しかし、どのような道が私たちの前に置かれていても、生きて働く御言葉に信頼し、御言葉にすがろうとする心の決断さえあれば、不安に陥ることなく大胆に歩むことができるでしょう。そしてぜひ心がけてほしい。授かった御言葉を頭の知識と知恵にとどめておくのでなく、御言葉を頭から胸(心)の方にもってくること、そうすれば、生きて働く御言葉は、私たちの胸の中で感動を呼び起こすでしょう。これを御言葉への霊的反芻と言えましょう。霊的反芻を通して、胸の感動も深まり、感動をもって与えられた道へと歩み出すわけです。ロゴス(言)である主イエスは私たちの傍らで共に歩まれ、時に適って御言葉による光を照らし、宝探しの歓喜を与えてくださるでしょう。神の家族の皆さん、ぜひ、心を一つにし、ダビデのように告白しましょう。

どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。(詩編19:15

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