2020年11月29日日曜日

2020.11.22 本日の宣教

 主がその手をとらえていてくださる』                  コリントの信徒への手紙Ⅱ 12910  詩編372324)

 コロナによる緊急事態宣言で、学校や色々な機関や教会も閉じられ、世間の多くの人々が不要不急の外出を控えるようになった3か月ほどの間、一人暮らしで無職の私は、自分の時間が格段に増えたという変な解放感から、じっくりと聖書を読み、熱心に祈るのではなく、新しいことを始めたり、色々な楽しい事に熱中したり、自分のしたいことを優先し、世の誘惑に負けっぱなしでした。ですから当然、毎日の祈りやディボーションはおろそかになりました。そんな私は、今の自分は神様の目にはどのように映っているだろうかと思いつつ、改めることなく同じような生活は続いていました。その結果、突然私に一つの試練が与えられました。それは、順調だった右の股関節が急速に悪くなり、127日に人工関節に置き換える手術をするという現実です。全身麻酔をするような大きな手術は今回10回目になり、さすがにへこみました。

 それと同時にコロナ以降、今まで経験のないことが次々と起きている世の中で、私の心にコロナ禍の不安とは違う、漠然とした不安な気持ちがが、ほぼ毎日のどこかのタイミングで顕れるようになりました。勿論、激しい痛みや手術という試練を与えられたことの不安もあるでしょうが、それよりももっと心の奥の方で感じる自分がしっかりと立っていないような不安です。その感覚は以前に何度も感じたことで、「あ~この得体のしれないような不安感は神様から離れているから起きたことだ」と気が付きました。いえ、本当は気が付いていたのに、日常の優先事項の中に埋もれさせて見ないようにしていたのでしょう。でも心は正直です。その気持ちと罪の意識が不安となって表れたのです。

 私達クリスチャンのアイデンティティ(クリスチャンとしての本質・自己同一性)は、イエス様を信じ、イエス様を自分の中心に置いて生きること、イエスキリストの十字架の贖いと蘇りの恵みと希望に感謝して生きるということだと思います。「イン・クライスト、キリストにあって」の言葉のようにイエス様を離れては肉体として生きてはいても、魂は死んだと等しいのだと思います。そして、今回のことを通して、主はこのような情けない私を決して見放さず、とげを与えることによってブドウの木から離れて、死んでしまう枝ではなく、生きた枝として主に立ち返る機会を与えてくださったのです。神はご愛のお方です。

 振り返ると、私は何度も試練を与えられています。そしてそれは、主がご愛をもって私のような小さな者にも、日々気づかされ立ち返るチャンスを下さっているのだと思っています。主の大きなご愛と恵みに感謝します。

願わくは、何度もチャンスを下さっている神様が、これ以上悲しい思いをされないように、そして、お願いの祈りばかりするのではなく、自分ではできないことでも聖霊様のお力を頂いて祈り、神様に喜ばれる自分になれる日が来ますように。

最後に、今回のことで、また両方の手に握りしめることになった私の大切な聖句を記します。

「すると、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われましただから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(中略)なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。  (コリント信徒への手紙Ⅱ12:9-10 一部抜粋)」

「主は人の一歩一歩を定め、み旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない、主がその手をとらえていてくださる。(詩編37:23-24)」 アーメン。     
                                              S. Y執事          

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