2020年11月29日日曜日

2020.11.29 本日の宣教

 『自分を取り戻す場所』 使徒言行録3章1~10節)

 4月から金沢教会に牧師として着任した杉山望(のぞむ)と申します。新型コロナウイルスのためにご挨拶が遅くなってしまいましたが、富山小泉町教会で共に礼拝を献げることを心待ちにしておりました。今日、この日を導いてくださった主に感謝します。私は札幌バプテスト教会で5年間、副牧師として働いておりました。道内の教会はとても繋がりが強く、良い交わりが与えられました。北陸でも三教会が良い交わりをもってこられたとうかがっており、私もその中へ加えていただくことを楽しみにしてきました。

 コロナは人の繋がりを制限してきました。ただ現代はそれ以前から、様々な人の繋がりが急激に変化してきた時代でもありました。特に日本社会は「無縁社会」とも呼ばれ、人の繋がりが弱まり、居場所を失う人も世代を超えて増えています。太田明という方が、居場所には二種類あると言っています。その一つは「社会的居場所」であり、他の人たちによって自分が必要とされていることを実感できる場所です。会社や学校、あるいは家庭や様々なグループなど、自分の役割があり、それが認められている場が社会的居場所となります。そしてもう一つは「人間的居場所」であり、「自分を取り戻すことができる場、庇護的な扱いを受けて安心できる場」です。社会的居場所は変わったり、無くなったりすることもあります。それでも、人間的居場所があれば、人はそこで慰められ、励まされて、新たな歩みを踏み出すことができます。しかし、人間的居場所を失っていると、社会的居場所も失いやすいという負の連鎖が生じます。無縁社会の中で特に重要なのは、安心して自分を取り戻すことができる人間的居場所なのでしょう。

 主イエスの召天後、弟子のペトロとヨハネは神殿の門で足の不自由な男性に出会います。施しをもらうことを期待して二人を見たこの男性に向かって、ペトロはこう言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)ペトロが彼の手を取って引き上げると、彼は足がしっかりして、躍り上がるように歩き出しました。教会が置かれた世界は、人の繋がりを失い、神から離れる罪の力が働く世界です。その中で教会はこの世の力を持ってはいません。教会に託されたのはイエス・キリストの名だけですが、その名は人を躍り上がるように立ち上がらせる力を持っています。

 足が不自由だった男性にとって、神殿の門は社会的居場所だったのかもしれません。毎日、物のように運ばれてきて、わずかな金銭を施してもらう。その繰り返しが彼の生活でした。しかしこの日、彼はイエスの名によって立ち上がり、自分の足で神殿の境内へと入っていきました。そのとき、神殿は彼にとって人間的居場所となりました。彼は神の前で安心して主を讃美しました。神からの祝福を受け取れるようになり、神に創られ、愛された自分を取り戻したのです。キリストの体である教会は、金や銀のようなこの世での力を持つことはできませんが、共に神の祝福を受け、共に讃美し、神の愛を分かち合い、喜び合うことで、自分を取り戻す場となるのです。

                                   金沢キリスト教会 杉山 望牧師

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