2021年11月24日水曜日

2021.10.3 本日の宣教

『 苦難の中で完成される救い 』 (ヨブ記1:13~22)

この世の誰が、迫ってくる苦難を止めることができましょうか。たとえその人が、世における権力者であっても、金持ちであっても、その人の人生には苦難は必ず訪れるはずです。10月のリビングライフのテキストのヨブ記には、苦難に遭いながら、その苦難をくぐり抜け救いを得たヨブという人が登場します。

ヨブは経済的には「東の国一番の富豪であった」と言われるほどでしたし、家庭においては、「七人の息子と三人の娘」を持っている祝福された人でありました。何よりもヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。(1:1)」人として、神との関係においても、人間関係においても非の打ち所がない人として描かれています。とりわけヨブは、子どもたちを、神の前に聖別された者として育て、子どもたちのためにいけにえを献げながら、彼自身、常に礼拝に生きる素晴らしい信仰者であったことが記されています。そのヨブに対する神の評価を見ましょう。「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(ヨブ1:8)…、これほど神に認められ褒められるほどの義人であったヨブでありました。 

ところが、彼が手にしていた祝福はたったの一日でそのすべてを失くしてしまうことになります。愛する子どもたちを一瞬にして失い、彼の家畜を含むすべての財産も消えてしまい、ヨブ自身も、ひどい皮膚病にかかり、灰の中に座って、体中をかきむしるような悲惨な状況に陥ってしまうのです。まさに、最高に尊い姿から、最低のみすぼらしい存在にまで落とされることを聖書は記します。…さらに、ヨブにとどめを刺すような、妻からの呪いの言葉が聞こえてきます。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(2:9)と。・・・一生涯、神を礼拝し、神の栄光を現すために生きていたヨブであって、その姿を目の当たりにしていた妻にとっては、どうしても納得の行かない理不尽な試練であって、しかも神が沈黙するような状況は受け入れられなかったかもしれません。「神を呪って、死ぬ方がましだ!!!」…この言葉はいかに多くの人が苦しみの中で叫ぶ言葉でしょうか。

キリスト者にとって神が沈黙されるような時こそ本当の苦しみです。神に祈っても、叫び求めても、神からは何も聞こえてこないような状況。そんな中で神を信仰しつづけることに意味があるだろうかと疑問を抱くことも多々あるでしょう。その叫びを私たちは、詩編22編のダビデと十字架上の主イエスの叫びから聞くことができます。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」という叫び声を。

しかし、私たちが忘れてはならない事実があります。それは、主イエスが十字架上の苦しみの瞬間、「すべて成し遂げられた。」と宣言されたことです。主イエスにとって、十字架の苦しみの叫びと救いの完成は父なる神を信頼する信仰の中で同時に起きたことでありました。主イエスが、苦しみと痛みの中で叫ばれたその瞬間、神は独り子を捨てたのでなく、主イエスの中であなたと私を救おう!という偉大なる御業を成し遂げられたのです。その通り、今は耐えられない苦しみであり、今は分からない痛みであっても、独り子さえも惜しまず与えられた神への信頼をもって歩み続ける人を、神は必ず、最善の時に適って最善のものを与えられ、祝福されるでしょう。同じように、愛なる神はヨブが苦難に遭うことを許されますが、ただ苦難だけで終わらせる方ではありませんでした。ヨブは耐えられないような苦難のただ中で、罪人としての本当の自分に出会い、神による真の救いと赦しを経験することになり、以前よりはるかに豊かな祝福に与るように変わります。コロナパンデミックの中で苦しんでいる人々への神の約束も同じです。ぜひ、苦難の中で完成していく神の救いの方に目を向ける私たちであるように…。


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