『 何もしないことを選ぶ勇気 』 (出エジプト14:13~14)
キリスト教会の歴史を見ると、どのような時代においてもキリスト者の信仰生活におけるいろんな規則や規範を設けようとされてきました。たとえば、聖書を読まなければならない、定期的に祈らなければならない、断食をしなければならない、伝道しなければならない、早天祈祷会をすべきだ、セールグループを作るべきだ、弟子訓練をすべきだ、慈善活動をすべきだ、などなど、これらの規則や方法論がキリスト者の信仰の強さや敬虔さを測る基準となってきたことも事実です。しかし、神は定まった規則や規範、方法によってしか体験できない方ではありません。神は無限大の方法をもっておられる方で、規則や規範に頼らず御業を成し遂げられ、いつどこでも触れられるお方であります。 大切なのは、私たちが何かをすることで神に認められるのでなく、常に神との親しい交わりの中で御心を知ることです。神が望まれるのは、私たちが神の御心を生きること、一人一人が神様との関係の中で、それぞれが神の望んでおられる道を歩むことなのです。とりわけ神の前で「何もしないことを選ぶ勇気」こそ、今現在の私たち求められる姿勢ではないでしょうか。
聖書の中で最も多く出てくる神からの命令を挙げるとすれば、当然「恐れるな」という言葉でしょう。なぜならば、人間は恐れと思い悩みの問題を自ら解決することができない存在だからです。そこで神は、神の子どもたちが人生の重荷を神に委ね、ただ神が与えてくださる安息と平安を味わうことを望んでおられるのです。
多くのキリスト者は神が喜ばれる人生のために、また神様にもっと用いられるために心を尽くして頑張って日々を過ごしていきます。そうする中で、心身共に疲れを覚え、時々失望に陥る時があっても、絶えず何かをしようと心がけながら頑張りますし、何かをしなければ、自分は駄目な人間のように思い込んでしまうでしょう。
そこで聖書は、なかなか慣れない一つの命令を投げかけてくれるのです。それが、「何もしないことを選びなさい」という命令です。とりわけこの命令は、神の国のために力を尽くしている中で疲れてしまった働き人への御心として示されているのです。父なる神は、神の子どもたちが何か立派な業績を残し、特別に目立つようなことを成し遂げることを望まれるお方ではなく、かえって「何もしないということを選ぶ勇気」のある人を喜ばれるはずです。
「何もしない」ということは、単純に肉体的な休息を意味しているのではありません。これは、常に成功することを要求する世界において、自分の領域を超えることに関してはただ神の御業にすがることを指します。何もかも信仰の力で頑張るのではなく、自分にできることには最善を尽くして取り組むけれど、自分にとってできないこと、自分の領域を超えたことに関しては、かえって何もしないことを決断し、生きて働かれる神の御業に信頼し御手の業を仰ぎ見る勇気を育むことです。
「何もしないことを選ぶ勇気」、これこそ新型コロナウイルスパンデミックによって多くの制限が設けられている時代を生きる私たちが身につけるべき信仰姿勢ではないでしょうか。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(14:14)…ハレルヤ!
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