2024年1月24日水曜日

2024.1.14 本日の宣教

 『日々死んでいく人々』  

             コリントの信徒への手紙一15章31節

私たちは神を信じ、イエス・キリストが私たちのために十字架を背負ってくださり、復活されたことを信じて生きています。そのため、人々は私たちを「クリスチャン:イエス・キリストに従う人」と呼んでいるのです。

そういう面で、私たちは区別された人々と言えます。それは、この世に生きてはいるけれども、この世とは区別されて生きる存在でもあるのです。そしてその区別された者たちが集う群れを教会と呼びます。「教会」とはエクレシア(呼び出された者たち)で、「キリストによって区別され集められた人々」という意味になるでしょう。だからと言って、ユダヤ人たちのように、「選民意識」に陥るのではなく、むしろ「赦された罪人たちの群れ」としてこの世に仕えながら、イエス・キリストの福音を宣べ伝えて生きるのです。

ですから、この世の人々も私たちクリスチャンに対して、自分たちとは少し異なる存在と見なしていることもあるでしょう。さらに人々は、私たちクリスチャンに対して少しでも違った生き方、少しは異なる生活を期待しているのかもしれません。その理由こそ、クリスチャンの生活の基準が違うからだと思います。私たちクリスチャンの生活の基準はイエス・キリストであり、神の御言葉にあるのです。神の子ども、神の民と呼ばれるにふさわしい聖さを持ち、主イエスの愛に倣って生きることが求められているのです。

主イエスは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。(ルカ9:23~24)」と言われました。自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従うことを「日々、毎日」行うのがクリスチャンの生き方だと教えておられるのです。主が言われた「自分を捨て、自分の十字架を背負うこと」は、祭壇に供えられる犠牲のように自分の命がいけにえとして献げられて「死ぬ」ことを指します。主イエスは、私たちが十字架を背負って従うようにするため、御自ら罪人たちのために十字架にかかり、贖いの死を成し遂げられたのです。

この主イエスの御言葉に応答して、日々、十字架を背負って死んでいくことを告白した人がパウロでした。

「兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。(一コリント15:31)」

使徒パウロは、主イエスの十字架と復活の恵みを体験してから繰り返し告白していたのが「生きるにしても、死ぬにしても」という言葉でした。その中でも、「キリストに結ばれて死ぬこと」が強調されていることが分かります。しかも、その死ぬことが毎日の生活の中で成就することを誇りとしていたことが分かります。

神の家族の皆さん、主イエスのために、日々、自分自身を死なせることを誇りとして生きていますか。願わくは、「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものであり、私たちにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことも利益である」と誇りながら歩む2024年でありますように…。ハレルヤ!



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