~ 隠れている明かりを ~
先週の水曜祈祷会ではマルコによる福音書の御言葉を分かち合いました。その中でも「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはない(マルコ4章22節)」の言葉が心に留まりました。これは明かりである神の御言葉こそ、明らかにするために与えられており、だから隠れているように見えても、必ずあらわにされる時が来ることへの約束と確信の御言葉です。
多くの日本のクリスチャンは、よく自分自身の信仰の弱さのゆえに、人々の前で福音を語ることができないまま信仰生活をしていることに情けない思いを抱いていると思われます。心の中では「私はクリスチャンで、あなたもぜひ福音を受け入れて救われてほしい!」と願っているものの、実際にクリスチャンとして積極的に信仰を表したり、福音を伝えたりすることを躊躇するのも現実でしょう。
しかし、自分自身の信仰の弱さを責めたり、罪意識で苦しんだりしないようにしましょうね。マルコによる福音書を書いた著者のマルコも若い時は弱虫であって、伝道旅行から勝手に離れてしまった時もありましたし、主イエスの12弟子たちは長い間主イエスと生活を共にしながらも御心を理解できず、十字架の前では裏切ったり、逃げてしまったりしていたことを私たちは知っています。それでも彼らは、後に、命をかけて福音の明かりを明らかにする人生を貫き通しました。
暗闇がさらに深くなっている近頃です。主が言われた、終わりの日が近づいているような気がする日々です。共に明かりを持っているものとしてのアイデンティティーをもちつつ、今は隠れているようだけど、聖霊による勇気と力をいただきつつ、主の御心をしっかり聞くこと、聞いた御言葉を生活の中でできることから適用していくことです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」ことを心がけましょう。シャローム!
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