『あなたはわたしの愛する子』
マルコによる福音書1章9~11節
先日、日本中を震撼させた小学5年生の男の子が犠牲となった事件は、現代社会の歪みを痛烈に突きつけました。本来、無条件に愛され、守られるべき子どもたちが、周囲の目を気にし、自分の尊さに気づけぬまま必死に生きるしかない……。そのような闇が深い現実が、今私たちの目の前に広がっています。
この悲劇は他人事ではありません。現代を生きる私たちもまた、「何者かであらねばならない」という無言の圧力の中にいます。成績、仕事の成果、良き親、良い子になることなど、目に見える「結果」だけで自分や他人の価値を量り、それが揺らぐとき、自分の居場所さえも見失いそうになるからです。そのような暗闇の中に、今日、マルコによる御言葉が一筋の光として差し込みます。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
主イエスがバプテスマを受け、水から上がられたとき、天から響いた声。ここで最も注目すべきは、そのタイミングです。この時のイエスは、まだ奇跡も説教も、何一つの「成果」も上げておられません。ただ、公の歩みを始めようとしたその瞬間に、神からの愛の宣言を受けたのです。
これは、神の愛が「条件付きのもの」ではないことを示しています。世の中の愛はしばしば「~ができるから愛する」という条件が付きまといますが、父なる神の愛は「あなたがあなたであるから」という、存在そのものへの宣言です。私たちは何かを成し遂げたから尊いのではなく、神によって造られ、今そこに存在しているという一点において、神の「最高傑作」であり、「愛する子」なのです。 聖書は、天が「裂けて」聖霊が降ったと描写しています。これは、神と人間を隔てていた壁が、神の側から一方的に打ち破られたことを意味します。私たちの罪や過ちによって天が閉ざされているように感じる時も、神は愛と平和の象徴である聖霊を、鳩のように優しく降らせてくださるのです。
さらに、罪のない主イエスがあえて罪人の列に並び、バプテスマを受けられたことは、私たちの痛みや苦しみのただ中に共に立つという「インマヌエル(共におられる神)」の決意表明でした。この歩みはやがて、命を捨ててまで私たちを救おうとする、究極の愛の告白である「十字架」へと向かっていきます。
愛する神の家族の皆さん、「あなたはわたしの愛する子」という言葉は、特別な功績を立てた人のためのものではありません。今日、疲れ果て、自分を愛せなくなっている「あなた」への言葉です。
神様の愛を信じるとは、世間の評価という秤を捨て、神様がくださった本来の「尊さ」を奪還することです。たとえ明日、また心が折れそうになっても、一度裂かれた天が閉じられることはありません。神様は、あなたが不器用な姿のまま立ち返るのを、両手を広げて待っておられます。あなたは、あなたのままで良い。神様にとって、あなたは宇宙の何にも代えがたい大切な宝物なのですから。
ハレルヤ!
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