2026年6月30日火曜日

2026.6.21 本日の宣教

 『 アッパ、父よ 』  

                     ローマの信徒への手紙8章14~16節

本日の御言葉は、クリスチャンの祈りの本質を教えています。私たちはしばしば、「どう祈ればよいのか」「もっと立派な祈りをしなければならないのではないか」と考え、特に苦しみの中では祈れない自分を責めてしまいます。しかしパウロは、「あなたがたは神の子とする霊を受けている。この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と語ります。

祈りの出発点は、私たちの熱心さや信仰の強さではありません。神が私たちを子どもとしてくださり、父となってくださったことにあります。「アッバ」とは、幼い子どもが父親を親しく呼ぶ「パパ、父ちゃん」という言葉です。子どもは父親の前で立派な言葉を用いません。ただ信頼して、「父さん」と呼びます。嬉しいときも、悲しいときも、何も言えないときでさえ父のもとへ行き、すべてを吐き出すのです。

祈りも同じです。祈りは宗教的な形式ではなく、父と子の交わりの時です。もし私たちが奴隷なら、祈りは義務や報告になるでしょう。しかし私たちは奴隷ではなく、神の子です。だからこそ疲れたときも、失敗したときも、罪を犯したときでさえ、「父よ」と呼ぶことができます。私たちは良い子だから神の子なのではなく、神の子とされたからこそ祈ることができるのです。

また、私たちはどう祈ればよいかも分からない弱い存在です。しかしローマ8章26節でパウロは、「霊も 弱い私たちを助けてくださる」と語ります。祈りの言葉が出ないときも、聖霊ご自身が言葉にならないうめきをもって執り成してくださいます。

また、「アッバ、父よ」と呼ぶ心も、祈り続ける力も、すべて聖霊の働きであると教えます。だから祈りは、頑張って神に近づく努力ではなく、父なる神の恵みの中に身を置き語り合うことなのです。

さらに、「アッバ、父よ」という祈りを最初に教えてくださったのは主イエスご自身でした。主イエスはゲツセマネの園で、十字架を前に深く苦しみながら、「アッバ、父よ、この杯を取りのけてください。」と祈られました。主イエスでさえ苦しみを隠さず、悲しみをそのまま父に申し上げられたのです。

したがって、「アッバ、父よ」とは、苦しみのない人の祈りではありません。涙の中でも、不安の中でも、それでもなお神を「父よ」と呼ぶ祈りです。そして、イエス・キリストが十字架への従順を貫いてくださったゆえに、私たちも神を「父よ」と呼びつつ、主イエスの後に従うことができるのです。

神の家族の皆さん、私たちの祈りは、いつも主イエスの祈りの中にあります。私たちは一人で祈るのではありません。聖霊によって支えられ、神の子として、今日もありのままの姿で「アッバ、父よ」と祈ることができるのです。

ハレルヤ!


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