『 自分の十字架を背負う② 』(マタイによる福音書16:24~27)
「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)
「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」…。この御言葉を、私たちはどのような思いで受け止めるべきでしょうか。ともすれば、私たちは、神からの祝福は受けたいけれども自分を捨ててまで、十字架を背負ってキリストに従うのは難しいし、これは主イエスからの特別な召命を受けた献身者にだけあてはまるのであって、自分のような一般のクリスチャンとは関係のないことだと思っている人も多いのではないでしょうか。
それでは、ここで「自分を捨て」とはどういうことでしょうか。これを一言で言えば、「今までの自己中心であった生活をあきらめて、主イエス中心の生活をしなさい!」ということになります。人は誰でも、心の王座に自分が座っていて自己中心に人生を生きています。しかし、主イエスに従おうと決めた人は、人生の王座から自分を引き摺り下ろして、その王座を主イエスに明け渡すのです。自分が中心であった時は、自分の欲望に従って自分の腹を満たすための生き方しか考えなかったし、それだけしか知りませんでした。しかし、救い主イエスに出会い、主イエスを心の王座にお迎えしてからは主イエスの御心に従って、神の国と神の義を優先するように変わり、神の愛に満たされることで満足することになるのです。・・・そうして、私たちは主イエスの十字架の後に従うことができるのです。
次に主イエスは、「自分の十字架を負い、そしてわたしに従いなさい」と語られます。ここで主は、私とあなたが背負うべき十字架とは、一人ひとりの固有のものであって、それぞれが違うと言われていることを覚えましょう。つまり、すべての人が十字架を背負っていて、自分だけに与えられた固有の十字架があり、周りの人と比較する必要はないのです。しかし、時々私たちは、自分が背負っている十字架をとても重く感じ、あまりにも大きくて背負えないと思ってしまいます。その時私たちは、“神は何で私だけにこんなに苦しい十字架を背負わせたのか”とつぶやくのです。
皆さんはいかがでしょうか。皆さんが背負っている十字架があまりにも痛く苦しいため、神様につぶやいてはいませんか。…しかし皆さん、確かなことは、わたしたちはその十字架に押しつぶされてしまう事はないということです。イエス様は、必ずその十字架を背負うための必要な力をも備えてくださるし、既にその力が与えられていると語っておられるのです。心配することはありません。思い煩う必要もありません。一切を主イエスに委ねて、信頼していくことです。そうする時に私たちはキリストが成してくださる、不思議な御業を体験することになるでしょう。
愛する神の家族の皆さん、皆さんはどんな十字架を背負われているでしょうか。あなたが背負っている十字架のことで辛く苦しい時を過ごしていませんか。求められるのは、 今までの自己中心だった人生の主導権を主イエスに明け渡すことから始めることです。すなわち、主イエスの前であなたが死に、主イエス様の命に満たされて生きることです。願わくは、神の家族の今年の歩みが、隣で歩まれる主イエスに励まされながら、各自に与えられている十字架を背負って、主イエスの時に適った恵みと導きをいただきますように…。ハレルヤ!
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