『 主の招きに答えて 』 (マルコによる福音書3:13~19)
イエスが12人を選んだ様子を注意深く見てみると、いろいろなことがわかる。イエスは山に登った。旧約以来、山は啓示の場と考えられてきた。さらに、山はイエスが祈る場所でもあった。その大切な場所で、イエスは、「自分が望む人たちを呼び寄せた」。ヨハネ15:16を読むと、イエスの強い意志、希望、確信が伝わってくる。イエスの弟子は、イエスに特別に選ばれた者だ。主役はイエス。弟子たちの資質は何一つ考慮されていない。それらは問題ではないのだ。イエスの願いによって、弟子たちが選ばれた。イエスが、弟子たちを必要としたのだ。
そのように、私たちもまた、イエスに招かれ、選ばれたものであり、それを可能にしたのは、神の熱心である。教会は神に選ばれ、呼びかけられた者の群である。1、イエスは何のために12人を招いたのか?その目的は?12人がイエスと一緒にいるためである。イエスのそばにいること、離れないことこそ、弟子に求められることである。イエスと共にいるとき、弟子たちはイエスに似たものへと変えられていくのである。神はなぜ、働き人を召すのか?神はご自身でなんでもできるのではないか?神は全能ではないのか?その答えは、神は喜びを分かち合いたいのだ。神は喜びを独占しない。共にいる者と分かち合うことが神の喜びなのである。マタイ25:21、23で「主人と一緒に喜んでくれ」という主人こそ、イエス様である。
2、12人が福音を宣教するためにイエスは彼らを招いた。そして、福音を宣教するためにイエスは弟子たちを派遣する。イエスは弟子たちを伝道旅行に送り出した。この時の戒めを考えてみよう。マルコ6:7以下を読もう。ただ神への信頼に生きよ!心配するな、任せて安心の日々を送れ!心配に人生を支配させてはならない。弟子たちは神の守りと導きをこの伝道旅行で経験した。神は、すべてをご存知で、万事が益となるように配慮されることを信じよう。
3、12人に全権をもたせるためにイエスは弟子たちを招いた。その全権とは、悪霊を追い出す力である。それは人間の解放のこと。私たちは様々な囚われの中に生きている。私たちは神を信じ、神に任せるよりも、経済力や人間関係が私に安心感を与えると思っている。そして、その罠にかかる。預言者たちは、鼻から息の出入りするものに頼るな。兵隊や軍馬の数を数えるなと、いつも警告した。それは、神ではなく、悪霊に支配されている印だからである。イエスは、悪霊の支配のもとにある人々を解放した。イエスはデカポリス地方のガダラに行き、狂人を癒した。そして、ガリラヤに帰った。たった一人の癒しのために湖を渡り、墓場を住まいとする男の人を解放するために、癒しのためにやってきた。弟子たちは悪霊の支配のもとにある人々を悪霊から神のもとへと奪還する権威を与えられた。それは癒しの力であり、奉仕の力と言い換えても良い。端的に言えば、愛の業である。
結語:イエスの弟子に、祭司、律法学者はいない。対立する水と油の関係の人間がいる。熱心党と徴税人である。イエスは12使徒を創造した。イエスは、すべての責任を引き受ける決意を持って弟子たちを招いた。これが教会だ。
田口昭典牧師
0 件のコメント:
コメントを投稿