『イザヤのように』 (イザヤ6章1~8節)
先週から本日までは「神学校週間」であります。日本バプテスト連盟に連なる諸教会が西南大学神学部をはじめ、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校と献身者として学んでいる神学生たちを支えるために、祈りつつ献金をアピールする一週間です。しかし、今現在の神学校は献身者養成という目的に忠実に役割を果たしているだろうか。…また、神学生たちは献身者として相応しい日々を過ごしながら、備えているだろうか。…そのことを黙想し祈っている内に浮かんできた聖書人物がイザヤでした。
イザヤ書6章はイザヤの召命が記されている箇所として有名です。とりわけ「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」というイザヤの応答の言葉に心打たれて、多くの青年たちが献身者の道に入って行ったわけです。
預言者(ヘブライ語でナビ)という言葉は、「神より預かった言葉を語る者」という意味です。すなわち、預言者は自分が思っている言葉を勝手に語ったり、人々が聞きたがる言葉を語ったりする存在ではなく、ただ、彼を召してくださった神からいただいた御言葉のみを民たちに伝える存在なのです。
イザヤはウジヤ王が亡くなり、政治的、宗教的、世界情勢など、不安定な中で神殿に上っていました。とりわけ、当時の南ユダ王国は政治的には神を頼ろうとせず、アッシリア王国を頼ろうとしていましたし、宗教的には民を正しく指導すべき祭司たちは堕落し、偽預言者たちの活動は盛んになり、民らは信仰的、倫理的に腐敗していた時代でした。まさしく風前の灯のような南ユダ王国を目の当たりにして、イザヤは神の助けを求めて神殿にいたのです。恐らくイザヤの執り成しはほぼ毎日続いていたことでしょう。彼の日々の優先順位は、まず神殿での礼拝と、生きておられる神との霊的な交わりであったことが分かります。
そこで神は、御前に来て礼拝し祈り求めるイザヤの汚れていた唇を清められ、神の御言葉を告げる預言者として招いておられます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。(8節)」という神の一人の預言者を求める問いかけに対し、イザヤは手をあげて「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」という応答します。しかし、その後イザヤに与えられた神のメッセージは平和と祝福を告げるのでなく、南ユダ王国への裁きと滅亡のメッセージでありました。その時感じたであろうイザヤの戸惑いを覚えます。それでも、彼は神から命じられた御言葉を語る預言者の働きを忠実に果たすことになります。
近頃の世界情勢、度重なる自然災害、倫理の崩壊などを目の当たりにしながら、私たちに求められる姿こそ、イザヤのような“霊性深い預言者の姿”ではないでしょうか。そのためには、日々主の御前にひざまずくこと、主の御声に耳を傾けることでしょう。特に、献身者として神学校へ進もうとする者、また献身者たちを教える神学校の先生方が身につけるべき姿ではないでしょうか。ハレルヤ!
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