『主を愛する人の歌 』
詩編116編 1~2
詩編116編は「救いを求める祈り」が応えられた人による感謝の歌です。
まず、詩人は「わたしは主を愛する」という表現で始めます。その愛の理由こそ、「主が詩人の嘆き祈る声を聞き、耳を傾けてくださったから」だと告白します。「愛する」と訳されたアーハヴは、主に神が私たちを、愛をもって選んでくださったことに対して使われる愛の言葉です。実際、旧約聖書の中で、この詩人のように「わたしは(主を)愛する」と直接的な表現を使うということは極めて少ないです。
それでは、詩人が告白する「主を愛する」とはどういうことを指しているでしょうか。ここでは、四つの側面からその意味を考えて見たいと思います。ぜひ、神の家族の皆さんも詩編116編の詩人の主を愛する四つの側面に対して、自分自身が主を愛しているかどうかを確認してみてください。
まず、主を愛することは「主を呼ぶ、主の御名を呼ぶ」ことに現れます。愛する者は、その大切な人の名を常に呼ぶことになります。とりわけ詩人は、主を呼ぶことを「祈り」(4節)と「礼拝」(13、17節)のために用いていることが分かります。
続けて詩人は、主を愛することは、「主の前で安らうこと」であると告白します。その通り、私たちも愛する人と共にいることで安らぎを得ることを経験します。弱り果て、不安の中にある人は、愛する神の御前に近づき、御手の守りを受ける中で愛されている者としての安心感に包まれることになるのです。
さらに主を愛することは、「愛する神に仕える」ことに現れることになるでしょう。詩人は自分自身のことを、神を愛するゆえに喜んで「僕」になることを選ぶと告白します。
最後に、詩人は、神を愛する者であることの表現として、神のために喜んで命を献げます。それは創造者であり、救い主なる神への信頼の証しであります。詩人は「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」と歌います。しかし、主イエスこそ、私たちを愛するゆえに、十字架の上で尊い命を献げられました。十字架の死は愛する者としての愛の極めであり、主イエスが先に愛の道を示されたのです。
本日は敬老祝福式の日です。小泉町キリスト教会の敬老祝福式を迎えるご高齢の皆さんの姿から、詩編116編の詩人の主への愛の現れを見ています。毎週、休まず礼拝に集い、日々の祈りから、また神の御手の中で安らぎを得ている姿、そして人生の終わりを御手に委ねつつ、天の御国への希望に満たされながら奉仕する姿から、皆さんがいかに主イエスを愛しているかが確認できるのです。願わくは、敬老祝福式を迎える皆さんをお祝いしつつ、その信仰に倣い、主への愛がますます膨らんでいく神の家族でありますように。ハレルヤ!
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