2023年9月27日水曜日

2023.9.24 本日の宣教

 『福音宣教のために 』

                         テモテへの手紙二 4章1~5節

今月は教会学校月間なので、教会学校や御言葉の学びについての思いをお話いたします。当教会では毎週様々な集会で御言葉を学ぶことが出来ます。私は教会学校の成人Bクラスでサブリーダーを勤めさせて頂いており大きな恵みをいただいております。

聖書は読む度に気付かなかったことに心が留まったり、疑問を感じたりします。「聖書教育」の聖書箇所を読んで感じた疑問や思いを毎週火曜日、閔先生にお尋ねしてより深く学ばせて頂いております。その際に受けた恵みをお伝えすることも訓練となっております。又、水曜日の祈祷会で片山兄をはじめ兄妹姉妹の疑問、質問からも「そこは、そういう意味だったのか。」と思い込みと勘違いを修正されることもよくあります。御言葉の学びは父子聖霊の神を知り、愛されていることを実感し力を得ます。

インターネットでは様々な知識や思想が語られるのを見ることがあります。しかしそれが神に至る知恵でなければ虚しいと言わざるをえません。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいない。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(コリントⅠ 8:2~3)」「主を怖れることは知恵の始まりである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(箴言1:7)」御言葉の学びは喜びの連続です。しかしそれは個人の満足に留まっていてはなりません。詩編の「地上であなたを愛していなければ、天で誰がわたしを助けてくれようか。(詩編73:25)」とか福音書にある金持ちとラザロの話(ルカによる福音書16:19~31)などを読んだりすると死んだ兄や社長の息子さんを思います。彼らの取り扱いについては神様にお委ねしますが、彼らと御言葉について話をしていなかったことには後悔があります。「今は話をしないで、話す機会があれば話そう。」そう思っているうちに、そのような機会は訪れませんでした。命は神のもの。別れは突然訪れます。

私の周りには大勢のまだ救いを得ていない方々がいます。手遅れとならない今「折が良くても悪くても」御言葉を伝えなけれなりません。そのためにより深く学び、十分に伝える備えをしていきたいと思います。今は「健全な教えを聞こうとしない時」なのでしょう。真理から耳を背け、作り話のほうにそれているということを見たり聞いたりします。だからこそ礼拝、教会学校や諸集会の学びが必要とされています。諸集会の参加者が増えることが望まれます。富山小泉町教会と信徒の皆様が主の善い器として用いられますように。主の栄光があらわされますように。御名が崇められますように。

                                          坂上幸男兄



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