2026年4月27日月曜日

2026.3.22 本日の宣教

 『香油が注がれるところ』

                マタイによる福音書26章6~13節

受難節とは、主の十字架の愛を見つめる季節です。そして十字架の愛とは、人の計算を超えた愛です。父なる神が独り子を死なせ、罪人たちの身代わりとされた出来事です。さらに御子イエスは人々に裏切られ、見捨てられ、十字架にかけられました。しかしそれでもなお、人々を愛することをやめませんでした。十字架の愛は、損得では測れない愛です。

主イエスはベタニアで、重い皮膚病を患っていたシモンの家におられました。食卓を囲む穏やかなひとときの中に、一人の女性が近づいてきます。彼女は非常に高価な香油の入った壺を持っていました。そして、その壺を開き、主イエスの頭に香油を注いだのです。

突然の出来事に、その場にいた人々は驚きました。とりわけ弟子たちは強く反応します。「なぜこんな無駄なことをするのか。この香油は高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と。

この女性が注いだ香油は、とても高価なものでした。当時の人々にとって、それは簡単に手放せるものではありません。おそらく彼女にとって最も尊いものだったのでしょう。それを彼女は惜しむことなく主に注ぎました。彼女は計算していません。合理性を考えてもいません。ただ、主イエスへの愛から行ったことでした。

この女性の行為は、主イエスの愛に応える愛そのものでした。彼女は自分の大切なものを惜しまずに注ぎ ました。人の目には無駄に見えていたでしょう。しかし、主はそれを「良いこと(=美しい、立派な)」と受け止められました。

私たちの信仰の歩みの中にも、同じ問いが与えられています。私たちは主に何を献げているでしょうか。 時間でしょうか。祈りでしょうか。奉仕でしょうか。お金でしょうか。それとも、自分の心そのものでしょうか。

現代の社会では、あらゆることが効率や価値によって判断されがちです。「それは役に立つのか」「意味があるのか」と問われます。しかし信仰の世界には、別の価値があります。それは、主を愛するゆえに献げるという価値です。

彼女の行為に対して、主イエスは驚くべき言葉を語られました。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と。

ベタニアの家に広がった香油の香りは、その場にいた人々の心に残りました。そしてその出来事は福音書の中に記され、今も私たちに語りかけています。

受難節のこの時、私たちの心もまた開かれ、主への愛の香りが証しとなって、周りへと流れていきますように。主の十字架を見つめながら、私たちの人生そのものが神に献げられる香りとなることを祈りたいと思います。ハレルヤ。


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