『 主が望まれる教会⑥(フィラデルフィア教会①) 』
~開かれた門を持つ教会~ ヨハネの黙示録3:7~13
本日はヨハネの黙示録の7つの教会のうち6番目の教会であるフィラデルフィア教会への主イエスのメッセージを分かち合いたいと願います。
「フィラデルフィア」という町の名前は、フィロス(愛)とアデルフォス(兄弟)という二つの言葉が合され「兄弟の愛」と呼ばれるようになりました。実は、その名前が付けられたのも、ペルガモン王国時代にこの地域を実際に統治していた兄弟のエウメネス2世とアッタロス2世による兄弟愛の物語が語り継がれ、町の名前になったのです。フィラデルフィアの町は他の町より歴史が浅かったのですが、小アジアの海岸と内陸をつなぐ貿易上のとても重要な都市でありました。また偶像が多く崇拝され「小さなアテネ」と呼ばれるほどでした。ちなみに地震も頻繁に起こる町でもありました。
フィラデルフィア教会は黙示録の7つの教会の中で最も模範的な教会とされ、スミルナ教会と同様に、主イエスからの叱責の言葉は見られず、褒め言葉と励ましの言葉だけが語られています。
まず、主イエスはご自身について、「聖なる方、真実な方、そしてダビデのカギを持っておられる方」として紹介しておられます。その中でも「ダビデの鍵を持つ方」という紹介が目に留まります。この表現はイザヤ22:22の引用だと思われます。すなわち、ダビデの子孫であるイエスがダビデの鍵をもっておられ、主イエスを通らなければ神の国に入ることができないことを表わし、鍵をもっているという意味は、その方こそ「主権者、支配者」であることを指します。その通り、救いの鍵をもっておられる主イエスが私たちの人生の中で置かれているすべての門の鍵となってくださるのです。しかも、「この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。(7節)」となります。…
しかし主イエスは、フィラデルフィア教会の信徒たちへの称賛の言葉を通して、鍵をもっておられる主イエスが、開かれた門を「あなたの前」、つまりフィラデルフィア教会の信徒たちの前におかれたと語られます。「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。(8節)」…開かれた門をおかれた理由こそ、彼らが「力は弱かったが、神の御言葉を守り、その名を裏切ることはなかった」からでした。
主イエスは、「弱く小さな力しかもっていなくても、命をかけて真実な主の言葉を守り抜き、どのような状況においても主イエスを知らないと裏切ることがなかった」フィラデルフィア教会の信徒たちを喜ばれ、救いの門を常に開いてくださっています。今も同じくフィラデルフィア教会のように「弱い力しかもっていなくても、福音の御言葉を命がけで守り、主イエスの御名を誇り証しする教会とキリスト者」を喜ばれ、彼らの前に開かれた門と鍵をくださることを約束されます。これはいかに素晴らしいことでしょうか。主イエスは力強い者、立派な礼拝堂、誇れるようなプログラムや外見を求めておられません。むしろ、弱さをもっていながらも主を喜び、御言葉を愛し信仰を貫く人を祝福されるのです。ハレルヤ!
(つづく)
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