2022年10月25日火曜日

2022.10.16 本日の宣教

 『御言葉に立ち返る』~ヨシヤの宗教改革~

            (列王記下22:8~13)

1517年10月31日、当時34歳の若き神学教授であったマルティン・ルターは、ヴィッテンベルク城内の教会の扉に、カトリック教会の免罪符販売に反対する95箇条の論題を貼ります。ここから宗教改革が始まるのです。

ルターが掲げた宗教改革の3大原理は「恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ」でした。この土台の上で宗教改革は揺らぐことなく成し遂げられたのです。

宗教改革の季節を迎え、本日は、旧約聖書の時代においても同じく行われた宗教改革の出来事を分かち合う中で、今の私たちに求められる信仰について確かめたいと思います。

本日の御言葉の登場人物は、8歳という幼い時に南ユダ王国の第16代目の王となり、ヨシャファト王、ヒゼキヤ王と共に主の目に正しい道を歩んだ王として称賛を受けているヨシヤ王です。彼についての聖書の紹介を見ると、「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。(22:2)」とあります。特に、「右にも左にもそれなかった」という称賛は、多くいる王の中でも、ヨシヤ王だけに使われていることが分かります。それほど、ヨシヤの信仰姿勢が、脇見をせず、まっすぐに前に向かって進んだということでしょう。これほど、ヨシヤは神の御心を行うことを第一とした王でした。そしてヨシヤ王が26歳になった時、彼は宗教改革を断行することになりますが、それはエルサレム神殿を修理していた時に見つかった律法の書がきっかけとなって進められることになります。

聖書時代から今現代に至るまでの歴史の中で起きたすべての宗教改革は、聖書を再発見し、御言葉に立ち返ることから始まったことを覚えましょう。

大祭司ヒルキヤがエルサレム神殿を修理する中で律法の書を見つけ、ヨシヤ王に渡します(8節)。ヨシヤ王は律法の書の御言葉を聞いた時、即、衣を裂きます(11節)。なぜならば、彼の心を揺さぶった御言葉の前にそのままにしていることができなかったからです。聖書を見ると、ヨシュア、ダビデ、ヨブ、ヒゼキヤ王など、神の御言葉に罪を示され、心を打たれた者は、御言葉の前で着ていた衣を裂きました。ここで「衣を裂く」というのは、極度の悲しみの表れであり、御言葉の前で自分の罪が明らかにされ、悔い改めの心情を表す行為でした。預言者ヨエルも、「衣を裂くのでなく、お前たちの心を引き裂け。(ヨエル書2:13)」と語ったほど、御言葉に立たされた人は悔い改めへと導かれるのです。その後、ヨシヤ王は御言葉に基づいて、さらに改革に励むことになったのです。

そうです。本当の改革は御言葉に打たれ、人間の限界と罪を認め、ただイエス・キリストにすがることから来を認めなければなりませんし、御言葉の前で私たちの生活そのものが裂かれ、聖霊に燃やしていただかなければなりません。その時、私たちは全く新しい者に変えられますし、私たちの前には新しい道が開かれることになるのです。今こそ、主の御言葉が語られる時、御言葉に打たれ悔い改める時、リバイバルの時です。ハレルヤ!


0 件のコメント:

コメントを投稿