2022年10月5日水曜日

2022.10.2 本日の宣教

『 あなたが抱いている希望は? 』(Ⅰペトロの手紙1:3~4、3:15~16)

Ⅰペトロの手紙が書かれた当時は、キリスト教への迫害が大変厳しい時でした。そのため、初代教会の信徒たちは、周辺の地域に散らされて過ごすしかありませんでした。ペトロはその中で、小アジア地域を中心に散らされている信徒たちを励ますために手紙を書いたのです。

この手紙で、ペトロが定義している「キリスト者」とは、神に選ばれた者であり、真の故郷を離れてこの世に「散らされて、一時的に仮住まいをしている旅人」として描いています。さらにペトロは、彼らは確かな天の故郷への希望をもって生きているものであり、その希望こそ、「生き生きとした希望(1:3)」であると教えます。手紙の中で、ペトロは「生き生きとした」という言葉と「希望」という言葉を好んで使っていることが分かります。しかもその希望について、「朽ちず、けがれず、しぼまない(1:4)」特徴をもっていると、その約束のゆえに今現在の試練と迫害に勝利することができると教えています。その将来の約束があるからこそキリスト者は、今喜びの賛美の声を上げることができますし、尋ねてくる人々に応答することができるのです。

迫害と苦難にさらされながらも信仰を貫いていたキリスト者たちの姿を不思議に思っていた人々は彼らに尋ねてきました。「なぜあなたたちは、これほどまで迫害を受け試練にさらされながらも信仰を諦めないのか。何か特別な理由や希望があるのか」と。…ペトロは、そのように尋ねてくる人々に対してどう答えるべきかについて教えます。

「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。(3:15)」…ペトロは、自分のうちにある希望について説明を要求する人には、「誰にでも、いつでも」弁明できる備えをしておく必要があると教えます。まさに、暗闇の世界に生きる未信者の人々は、厳しい試練や迫害のただ中に置かれながらも「生き生きとした希望」に満たされて生きているキリスト者の姿を見て不思議に思い、その信仰について、生き方について、またその希望について尋ねることになっていたわけです。キリスト者はその時のために、いつでも弁明できるようにしておかなければならない。そして弁明する時には、傲慢にならず、常に穏やかに、敬意をもって、正しい良心の上で弁明するようにと示されています。ここで言う「弁明する」とは、受動的な弁明や弁護ではなく、積極的に確信している福音について明らかに告げること意味します。しかも、弁明の時の姿勢として、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」と、神と人の前でふさわしい姿で弁明すべきであるのです。

統一協会やカルト宗教で騒がれている近頃の日本社会において、私たちが正しい福音を伝えるチャンスはそうそうあるとは思えません。だからこそ、「光の子」として、常に心の中でキリストを主とあがめつつ、愛に基づく善い行いを、そして生き生きとした希望を抱いている者として人々の前に現れるべきです。その姿に引かれ、心動かされた人々に、折が良くても悪くても大胆に福音を宣べ伝える小泉町教会の神の家族でありますように…。ハレルヤ!


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