『幸福は分かち合うもの』
(使徒言行録2章43~47節)
今月、幼稚園の子どもたちと芋掘り遠足に出かけました。5月に植えたサツマイモの小さな苗は、畑一面に葉を広げるほどに育っており、土を掘り返すと大きなサツマイモが出てきました。子どもたちと一緒に歓声をあげながら、収穫の恵みを与えてくださった神様に感謝しました。芋掘りの後はレジャーシートを広げて、家族ごとにお弁当を食べました。早々と食べ終わると、子どもたちはお友だちのところに行って、持ってきたおやつを分け始めました。おやつをもらった子どもたちが喜んだのはもちろんですが、おやつをあげているときも、子どもたちは何だか幸せそうでした。その姿を見て、幸せは分かち合うものであり、人は誰かに喜ばれることが嬉しいのだ、ということに気づかされました。
南アフリカのズールー語に“Ubuntu(ウブントゥ)”という言葉があります。日本語に翻訳するのは難しい言葉ですが、それは「あなたがいてくれるから、私がいる」という意味の言葉です。ある人類学者は、南アフリカの村へ行った時に、この言葉を知りました。彼は村の近くにある木に子どもたちの好きな食べ物をつるしておいてから、村の子どもたちを呼び集めました。そして、「一番先に木に走りついた人が全部食べられる」というゲームを提案しました。ところが、彼がスタートの合図をしても、誰一人、競い合って走り出す子どもはいません。誰に言われるでもなく、みんなが手をつないで一緒に走り出し、みんなで食べ物を分け合ったのです。彼がその理由を尋ねると、子どもたちは口々にUbuntu!”と叫びました。そして、「他の人が悲しんでいるのに、どうして一人だけで幸せになれるのですか?」、と彼に聞き返しました。
人は一人では幸せになれません。神様の恵みの中で、互いに助け合い、関わりあって生きるのが人間です。神を愛し、隣人を自分のように愛することは、私たちにとって基本的な、かつ欠かすことのできないことでした。けれども、現代社会ではこれまでのような共同体は失われ、孤立していっています。その反面、あらゆるところで競争が強いられ、格差が広げられ、生きづらい世の中になっています。人にとって基本的であり重要なことがおろそかにされてしまっているのではないでしょうか。
使徒言行録には、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」、という記事があります。また、イエスが育った村では、数軒の家が中庭を囲んで建てられており、生活用品を共有したり、一緒に食事や子育てをしたりしていました。同じようにはできなくても、皆で分け合うことは人の幸福のために必要なことです。ご自身のすべてを私たちのために差し出してくださったイエス・キリストは、私たちが互いに愛し合い、与えられた恵みを分け合って生きる喜びと幸せを教えてくださいました。「人が独りでいるのは良くない」と言われた神様は、私たちが孤立せず、主イエスと共に、また隣り人と共に生きられるように導き、祝福を与えてくださるのです。
金沢キリスト教会 杉山 望
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