『 喜びの信仰 』 (ローマの信徒への手紙15章13節)
私たちがいただいている信仰は「喜びの信仰」です。「喜び」はいらない、という人はいないでしょう。みな喜びに満たされた幸な人生を送りたいと思っています。にもかかわらず、それを得られず、他者を批判し、世の中が悪いと言い、こんなはずではなかった、という人が周囲にあふれています。イエスさまの語られた言葉が次々に思い出されます。
1.まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、あなた方が欲しいと願っているものは、おまけとして与えられます。
2.必要なことは多くはない。いや一つだけだ。 3.恐れることはない。ただ信じなさい。
4.「できれば」というのか。信じる者にはなんでもできる
イエス様はいつも、今生きている私、あなたの信仰に命の息を吹きこもうとされます。イエス様は、からし種一粒の信仰を問題にされました。信仰は今、ここで生きる力になるものです。私たちは、信仰で毎日を生きるのです。この世にあって、しかし、あたかも神の国を生きるように生きるのです。信仰によって、神の国に生きるのです。
信仰は、神のご計画が必ず実現すること、神の勝利を硬く信じることでもあります。しかし、過去と未来に私たちは悩まされ続けています。ああしなければよかった。あのようにすべきではなかった。あのようにしなければならなかったのだ。ああすべきだった。悔いと後悔と責めと非難、批判がつきまといます。
また、どうなるだろうかこの先。もし、事態が悪くなったらどうしよう。このようにして、過去と未来が今を責め立てます。そうすると、後悔と罪責感とそして、もしという不安と恐れが私たちを襲います。その結果、私たちは今を失うのです。
どのようにしてこのようなジレンマから抜け出せるのでしょうか?
それは、愛の神に目を向け、心を開くことによってです。具体的には、神に聞くことです。イエスはいいました。私を見たものは神を見たのだ。私に聞いているとき、神にきいているのだ、と。私たちの信ずべき神は、私の今を支配する方です。過去の重荷と未来の思い煩いを取り除くために、イエスはこられたのです。
今・ここを生きるために不可欠なものは、祈りです。祈るときに、私たちは神の前に出るからです。祈るとき、私たちは一人ではなく、神とともにある事を信じるのです。神が私たちに仕えてくださったのです。神は無力な方ではなく、また、神は暴君でもありません。私たちの幸いのために、何でもしたいと願っておられる方だからです。
イエスは「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は求める者に良いものをくださるにちがいない。」
祈る事は、愛の語りかけを聞く事です。耳を傾ける事です。聞き従うということです。これは信仰の本質です。英語では、obedienceといいます。それは、もともと、ラテン語の「注意深く聞く」ということばから生まれたのです。注意深く聞かなければ、神の愛の語りかけは聞こえないのです。祈らないという事は、神に聞かないという事です。神の愛の声を聞かなければ、私たちは過去に埋没し、未来の心配によって振り回され、エネルギーを吸いとられてしまうのです。
だから、どんな時でも神を信じ、神の愛が豊かに注がれていることを信じ、愛され、守られている私を思い描きましょう。誰もこの神の愛を私から奪うものはいないのです。私は愛されている。神はインマヌエル。私はただ信じる!
金沢キリスト教会牧師 田口昭典
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