2020年5月24日日曜日

2020.5.17 本日の宣教







『 主に喜ばれる礼拝者 』 (詩編24:36)

  一か月半、私たちは社会的距離をとり、人の命を守るために礼拝とすべての諸集会を休み、共に集い、顔と顔を合わせての共同体の礼拝はできませんが、各自がそれぞれの生活の場にあって「生きた礼拝者」としての歩みを続けています。

 先週私は、神が最も大切にされていることが一人の人の命であって、最後の一人までも救うことが神の愛の熱心であって、ビジョンであることを話しました。そこで私たちも「イエス様だったらどうされるだろうか」と問いかけながら生きることでイエス様に似た者としての日々を歩むことを確認したわけであります。

 そこで本日は、生きた礼拝者とはどういう人のことを言うのかということを分かち合いたいと思います。とりわけ共同体としての礼拝ができない中で、どのようにして生きた礼拝者となれるのか、神が望まれる生きた礼拝者とはどのような人なのか、について考えてみたいと思うわけであります。

 主イエスはサマリアの女との対話の中で、「サマリアの聖なる山か、エルサレム神殿」と言った礼拝の場所が大切ではなく、「霊と真理をもって生きた礼拝をささげる礼拝者」が求められると教えられました。実際のところ、「生きた礼拝者」を求める神の熱心は旧約聖書から新約聖書まで一貫していることが分かります。しかし、多くのキリスト教会とクリスチャンは、サマリアの女のように、常に何か目に見える礼拝堂、礼拝形式を重んじ、それによって信仰の敬虔さと霊的成熟の基準にしようとする誘惑に立たされているのかもしれません。

 本日の詩人は、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。」3節)と尋ねます。そして自らの言葉で応答します。それは、「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。」(4節)だと。ここで詩人は、神が祝福する礼拝者の主な基準として、「心、魂」を挙げています。何か目に見える社会的価値、聖なる信仰形式に基準を置くことを拒みます。詩人は主に喜ばれる人のあるべき基準について迷いがありません。主が見ておられるのは、その人の清い心と魂、そこから出る善い行いであって、決して人間社会で求められるような地位や権力、お金などではないのです。この詩人の信仰姿勢は旧約聖書のイザヤ、エレミヤ、アモス、ホセア、ミカなどの預言者たちを通して確かにされ、主イエスによって形式的な神殿礼拝は打ち砕かれることになります。その後、主に喜ばれる礼拝者のあるべき姿は使徒たちを通して強調され続けます。…使徒パウロは、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」 (ローマ12:1)と旧約と新約聖書で一貫して語られた真の礼拝と生きた礼拝者のあるべき姿をうまくまとめています。
  「新型コロナウイルスとの共存」という時代を歩むことになる私たちです。ぜひ、神の家族お一人お一人が主に喜ばれる礼拝を献げる礼拝者となりますように…。この世に倣うことなく、常に心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる人が生きた礼拝者なのです。小泉町教会はこのような礼拝者を生み出す群れになるべきです。ハレルヤ!

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