2020年5月11日月曜日

2020.4.12 本日の宣教


『 死んで、生きる 』(ヨハネによる福音書12:2426)

 イースターおめでとうございます!!!

新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)に対し、世界中が恐怖と不安な中でイースター礼拝を迎えました。すでに、全世界で150万以上の人が感染し、10万人以上の人が命を亡くしてしまいました。ウイルスという見えない強力な敵との闘いに対して、ただただ早くこの災難が取り去るようにと祈ることしかできない弱い人間の姿があります。このような状況の中、私たちは復活の福音について考え、キリスト者としての信仰を新たにしなければならないと思います。とりわけ死と復活という主イエス・キリストを通して示された神の一方的な愛のご計画をしっかりと受け入れ生きることこそ、主イエスが求められる御心ではないでしょうか。

本日の御言葉は、「一粒の麦」のたとえです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)…主イエスは、ここで自然の摂理について教えようとしたわけではありません。「一粒の麦」とは、イエスご自身のことを指します。主イエスは、ご自身が十字架の上で死ななければ、新しい命の誕生も、豊かな命の実を結ぶこともできないことをご存知でした。とりわけ弟子たちが人間的欲望にとらわれている自己中心の世界観から、永遠なる神の国と隣人の救いのために命を捨てる自己否定の価値観へと変えられ、豊かな実を結ぶことを夢見ておられたのです。なるほど、主イエスは十字架上の死を通して一粒の麦になられました。十字架の出来事は弟子たちをはじめ主イエスを慕っていた人々に大きな失望と敗北を与えました。しかし、墓に葬られて三日目、死より復活されたことによって、一時期切れてしまったかのように見えた神の愛と命、希望の物語は再び歩み出すことになったのです。

「復活の初穂として主イエスが一粒の麦となられた、主イエスの死と復活によって、私たちを苦しめ恐れを抱かせていた死と滅びは打ち砕かれたのだ!」…復活された主イエスに出会った弟子たちは死ぬことを恐れず、死ぬことによって生きるキリスト信仰の神秘を手にすることができ、その神秘を伝える証人となりました。

新約聖書における「証人」(ギリシャ語:マルトゥス)と言う言葉は、もともと「殉教者」と言う意味から成りました。すなわち、イエス・キリストの証人になるというのは、命をかけて殉教することをも喜び、最後まで自分が体験し信じていることを伝え続ける人という意味なのです。主イエスが十字架の死をもって最後まで神の愛と神の国の福音を証しされたように、弟子たちもイエス・キリストの教え、十字架の苦難と死による贖い、復活による永遠の命と神の国の福音を命ある限り、地の果てにまで伝え続ける証人となりました。彼らを殉教者へと導いた信仰こそ、「主イエスの復活の出来事」でした。そうです。弟子たちは、「死」は決して終わりでない、またキリストが復活されたように自分自身も復活する、という信仰へと変えられたのです。彼らが復活の主に出会わなければ決してあり得なかった姿でした。

今現代を生きる私たちには2000年前の十字架の苦難も、迫害もありません。しかし、私たちも日々いつ死の恐怖に襲われていると言ってもおかしくない時代を生きています。日々、大変な災害と変革の時代を生きています。この時だからこそ、私たちの信仰をイエス・キリストの「十字架と復活」の上に建てなければならないのです。願わくは、お一人お一人が、日々イエス・キリストと共に死んで共に生きる中で、豊かな実を結ぶ復活の証人となりますように…ハレルヤ!


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