新型コロナウイルスが世界に流行してから、世界の人々が共通して参与している運動がありますね。それが「社会的距離置き運動」です。ソーシャルディスタンスをしっかり確保して生活することで、感染のリスクを抑えることができるという理由からです。
聖書の中にも重い皮膚病にかかった人が社会から隔離されて暮らしていたことが記されていますし、疫病という感染症を神からの裁きとして受け取りながら、死の危険から身を守るために自然と社会的距離を取って生活していたことが分かります。
詩編42編は、自分たちの意思とは関係なく、物理的な力によって祖国から異国の地に連れ去られたイスラエルの民の嘆きの歌として知られています。祖国から異国の地に連れ去られたイスラエルの民、かつてエルサレムの神殿で経験していた礼拝による神との素晴らしい交わりを失ってしまった者たちの姿を心に描いてみましょう。神を礼拝する場所もなく、捕虜としての厳しい生活を余儀なくされ、異国人からは「お前の神はどこにいるのか」と嘲られるような状況に追い込まれている…。彼らは、過去にエルサレム神殿でささげていた礼拝を思い起こしながら涙を流しているのです。…しかし、詩人はこのような苦しい状況のただ中で、自分の魂に向かって呼びかけます。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、「御顔こそ、わたしの救い」と(6節)…希望が見えない現実に失望し落胆している自分の魂に客観的な視点から呼びかけることで、見失っている神に目を向けさせています。そして、詩人は今にも消えてしまいそうな信仰をかき集め、信仰の火が消えないように自分自身を励まします。その理由こそ、世界の創造者であり、歴史の支配者である神がついには自分自身を助けてくださり、再び礼拝の恵みを回復してくださることを信じるからであり、最後には神の救いと助けを信仰告白としてささげることを決断するのです。新型コロナウイルスのために礼拝に集えない私たちは、この詩人の信仰姿勢と告白からどれほど大きな励ましを受けていることでしょうか。
そこで本日の詩人は、私たちに「あなたは神に対して鹿のような飢え渇きを覚えていますか」と問いかけています。聖書の多くの箇所で、社会的距離を置くときこそ、神様との霊的距離は近づく時であって、神に近づき祈り求める人を主が喜ばれることを記しています。バビロン帝国で捕虜生活をしていた預言者ダニエルは、当時のバビロンのダレイオス王以外のどんな神や人をも拝むことが発覚すれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという命の危機の時にも毎日3度、神を礼拝し祈りをささげることをあきらめなかったことを知っていますし、その他多くの信仰の先輩たちを通して、共同体の礼拝ができない時こそ、神様との霊的距離が縮まる恵みを教えられます。…「主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし、主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞いて救ってくださいます。」(詩編145:18~19)の詩人の告白は真実です。
日々、神に近づき親密な交わりを持つことで霊的距離が縮まる人こそ、生きた礼拝者であると言えましょう。社会的距離を置かなければ生きていけない今の時だからこそ、ぜひ神様との霊的距離、また執り成しによる神の家族との霊的距離が近づく恵みを味わえる小泉町教会の神の家族でありますように・・・。ハレルヤ!
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