2020年5月11日月曜日

2020.5.10 本日の宣教


『 イエス様だったらどうされるだろうか』(Ⅰヨハネの手紙4:1621)

 アメリカのトランプ大統領は、先日「今後も死者の増加は避けられない」と言いつつ、経済活動を早期に再開させる必要があるという考えを強調しました。大統領選挙を控えている焦りもあるかと思いますが、一刻も早く経済を正常化させたいという狙いでしょう。やっぱり資本主義の中心国の大統領にありそうな言葉だと思います。しかしいかがでしょうか。それでいいのでしょうか。聖書の上に手を置いて祈ることで大統領の働きを始めるキリスト主義で成り立っている国が、いつの間にか「命よりお金」を優先するという、聖書の御言葉とかけ離れた現実をどう見るべきでしょうか。

 とりわけ新型コロナウイルスが世界のすべてを覆そうとするこの時に、私たちキリスト者が目を向けるべきは神の御言葉であり、御言葉に聞くことを心がけなければなりません。その中でも、世界のキリスト教会とキリスト者一人一人が常に問いかけるべきことが「イエス様だったらどうされるだろうか」(What would Jesus do?)ということであると思うわけです。…私はクリスチャンとしての歩みを始めた時から、特に大切な決断が求められる時には必ずと言うほど、「イエス様だったらどうされるだろうか」という問いの前に立ち続けました。そしてこれは、小泉町教会の神の家族とも何度も確認してきた問いかけでもあるのです。だから、“なぜこの時に新型コロナウイルスが世界に広がっているのか、神は世界のキリスト教会と一人一人のキリスト者に何を求めておられるのだろうか、…”などを問いかけつつ、神の御声を尋ね求める姿勢が求められることを確認したいのです。

 聖書は感染症(疫病)について多く言及しています。その中で感染症は、人間社会の罪悪による堕落による災い、そして汚れた共同体を清めるための道具として記されています。その他に、神の御業を妨げようとする異邦の国々と民らへの裁きとして、また、神の民の高慢と不従順に対する神の裁きとして用いられてきました。最後には、罪ある世界の終末、すなわちキリストの再臨の前に起きるべき出来事として記されているのです。…「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(ルカ24:1011

聖書が語る感染症はただの裁きではありません。むしろ、神がすべての人を救おうとするための徴であって、神の愛の熱心が成就されるために用いられることをぜひ覚えていただきたいと思うのです。本日の御言葉では、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す」と宣言します。さらに「神を愛するということは、兄弟愛を通して現れるのだ」と告げているのです。まことに主イエスは「友のために命を捨てることほど大きい愛はない」と教えられ、御自ら十字架にかかり、命を惜しまず捨ててくださいました。主イエスは常に隣の小さな者、病人、社会的弱者、罪人などに目を向けられ、その人々の友となられたのです。同じく、新型コロナウイルスという感染症を前にしている世界のキリスト教会とキリスト者一人一人が、口だけで神を愛していると言う偽り者にならず、隣の苦しむ兄弟の命を守ることを優先し神の愛を実践できますように…。ますます愛が冷えていく世界の中心に立ち、「イエス様だったらどうされるだろうか」と問いかけつつ、十字架の愛を叫び愛の手を差し伸べる世界のキリスト教会とキリスト者一人一人によって神の国は近づくはずです。ハレルヤ!

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