『今こそ、泣くとき』 (ルカによる福音書ルカ福音書23:27~28)
受難週礼拝を迎え、主イエスの平和と慰めが神の家族お一人お一人の上に豊かにありますように…。
新型コロナウイルスによる未曾有の感染拡大とそこからの被害と恐怖、そして大切な命を守るために主日礼拝を含むすべての諸集会休止という苦渋の決断を下してから献げる最初の主日礼拝であり、2020年度の最初の礼拝となります。このような暗闇の状況のただ中、示されたみ言葉の恵みをいただきましょう。
主イエスが、十字架を背負ってゴルコタの丘に向かって歩く途中でした。主イエスは、泣きながら付いてきていた女性たちに向かって、“エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな、むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け!”と語られます。彼女たちは、イスラエル社会で無視され蔑まれてきた人たちでした。しかし主イエスは彼女らをあるがまま愛し、愛の御手で優しく包んでくださいました。いつも憐れみ深いまなざしで接してくださり、生きることの素晴らしさを教えてくださったお方、何の罪も犯したことのなかった主イエスが、最も呪われた罪人の象徴である十字架にかかるなんて信じられないことでしたし、女性たちは泣き崩れてしまいました。もし私たちが、2000年前のエルサレムにいたとしても同じ悲しみに包まれていたに違いありません。
しかし、主イエスは、「わたしのために泣くな」と言われる。なぜならば、主イエスの十字架の道は、究極的には復活の勝利の道であって、全人類に救いと勝利をもたらす道であったからです。むしろ私たちは、主の十字架の道に感謝し、主の命をかけた愛に感謝の讃美をささげつつ、主に従うことを心がけるべきです。
興味深いことに、「泣くな」と言われた主イエスが、続きの言葉では「泣け」と命じられる。「自分と自分の子供たちのために泣け」…。これはやがて訪れるべきローマによるエルサレム滅亡の預言の言葉であり、その日には、泣かずにはいられなくなることを、主イエスは見ておられたのです。その日を恐れつつ、エルサレムと子どもたちを胸に抱き、涙をもって神の憐れみを乞い求めなさいと言われるのです。そうです。主イエスは最後の最後まで、人への思いやりと愛で満ちておられます。公生涯を通じていつも小さな人、弱い人、悲しむ人、病んでいる人の友となられ、彼らの傍らで手を差し伸べ支えてくださいました。そして、その愛の姿は十字架を背負う最後の時まで続きます。・・・愛なる主イエスは今日も、わたしたちに語られます。“今こそあなたとあなたの家族、あなたの国のために泣く時だ!”と。新型コロナウイルスという未曾有の災難に直面し不安と恐怖に怯えている世界と日本社会、感染症にかかって生死の戦いをしている人々、また命をかけて医療現場で働いている医療関係者の方々のために、私たちは泣きながら執り成し祈り、世界の人々に助けの手を差し伸べることを心に新たにしなければならないのです。
ぜひ、私たちの涙と悲しむ心をいつも見つめておられる方がいることを覚えましょう。その方は私たち以上に悲しまれ、呻きをもって執り成してくださると聖書は約束しています。“この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか(ヘブライ4:15-16)”
私たちが主イエスの十字架の前で、日本を含む世界の国々の悔い改めと救いのために涙し、神への愛の回復を執り成し祈ることができますように…。主イエスは私たちの涙の祈りを喜ばれるでしょう。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿