2020年5月24日日曜日

2020.5.24 本日の宣教



『 キリストの苦難の欠けたところを満たす 』 (コロサイの信徒への手紙1:2425)


キリスト教は「苦難の問題」について長い間、戦ってきた宗教です。キリスト教信仰において「十字架の苦難と復活の栄光」は中心を占めていると言えましょう。使徒パウロは「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」と告白し、「十字架だけを誇りましょう」と証しているほどでした。

 しかし、人間の苦しみの中には悔しい苦難もあり、理解できない苦難もあります。キリスト教は、主イエスが受けられた苦しみ、十字架の苦しみ、罪のない者に注がれる苦難、納得のいかない苦難の神秘に注目します。

 本日のコロサイ1:24で、パウロは次のように告白します。

「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」 

「キリストの苦しみの欠けたところ」と聞くと、まるでキリストの苦しみがなにか物足りないような、主イエスの残してしまった部分を私たちが埋めなければならないような意味に聞こえてしまいます。それでは、イエス・キリストの苦難は本当に物足りなく、不十分なものでしょうか。…いいえ、キリストの十字架の苦難は決して欠けることも、足りないこともありません。私たち人類を救うためのイエス・キリストの苦しみは満ち溢れています。主イエスが十字架の上で最後に叫ばれた「すべて成し遂げた!」という言葉を覚えているでしょう。

「キリストの苦しみの欠けたところ」を理解するためには、まず「キリストの苦しみ」について理解しなければなりません。パウロはⅠコリントの信徒への手紙で次のように語ります。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(1:5)   パウロはここでも「キリストの苦しみ」という表現を使っています。しかし、キリストの苦しみが満ち溢れて私たちにも及んでいるとはどのような意味でしょうか。ここでの「苦しみが満ち溢れる」という言葉には二つの意味があります。まず、「キリストご自身が受けられた苦しみ」が満ち溢れているという意味と、次に「キリストのために私たちが受ける苦しみ」が満ち溢れるという意味なのです。ですから、「キリストの苦しみの欠けたところ」というのは、「キリストが成し遂げられなかった苦しみ」ではなく、「キリストのために私たちに残された苦しみ」すなわち、私たちキリスト者が積極的に受けるべき苦しみという意味になるのです。

 私たちの前には新型コロナウイルスとの長い綱引きが残されています。私たちの受けるべき苦しみはまだ終わっていません。しかし、私たちの苦しみのただ中に主イエス・キリストの苦しみが満ち溢れ、私たちを慰め力づけてくださるはずです。願わくは、キリストの苦しみの欠けたところを神の家族お一人お一人の身をもって満たしていきますように…。そのため、常に聖霊との交わりを通してインマヌエル信仰の恵みに満たされましょう。ハレルヤ!

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