2021年9月12日日曜日

2021.9.12 本日の宣教

 『 絶望の池にて 』 (ヨハネによる福音書5:1~9)

エルサレムの羊の門の傍らに「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。その池には、「たまに天使が降りて来て、池の水を動かす時、最初に入る人の病が癒される」という伝説がありました。そのため、ベトザタの池の周りには、消えていく希望を最後まで握りしめている多くの病人たちが横たわっていました。ここは、他のところでは癒されなかった人々が最後の望みとして選択した場所でした。「ベトザタ」の意味は「憐れみの家」で、まさに多くの病人たちが神の憐れみを受けるために池の周りに集まっていたのです。しかし、「憐れみの家」であるはずのベトザタの池は、神の憐れみどころか、弱肉強食であり、常に一番にならなければ癒されない場所、ただ一番だけに意味があり、二番になることすら許されないところ、人間社会の競争が最も激しく繰り広げられる場所がベトザタであったわけです。

その病人の群れの中に、本日の箇所にあるように、38年も病気で苦しんでいた人も横たわっていました。彼も他の病人たちのようにベトザタの池の伝説を最後の望みとしてチャンスを狙っていたものの、彼を助ける人がいなかったため、たびたびチャンスを逃し、もう希望は絶望に変わっていました。

しかし、そのような絶望の池に、主イエスが訪ねて来られました。しかも、主イエスがベトザタに来られた理由、それはこの38年間病気で苦しんでいた人に会われるためでありました。とりわけヨハネによる福音書では、主イエスと一人の人との出会いが大切に記されています。サマリアの女との出会い、ニコデモとの出会いがそうです。主イエスの目の焦点が常にある一人の人に合わされていることが大切で、本日の箇所でも主イエスはある意図をもって38年も病気で苦しんでいた人に出会うためにわざわざ訪ねられたのです。

主イエスは彼に近づき尋ねられます。「良くなりたいか」。この問いかけは、癒されたいためにベトザタの池に来ている病人にとっては侮辱するような言葉として聞こえたかもしれません。なぜならば、今彼は、癒されるために、絶えず、水が動くことを待っているわけですから。しかし、ここで主イエスには「良くなりたいか」という問いかけを通して、彼自身に自分の状態を認識させ、そこから癒される方へと目を向けさせる意図があったのです。彼が、いつまでも人が作った伝説に目と心を奪われ、ベトザタの池の水ばかりを見ているのでなく、まことの癒し主の方に目を向けて、希望を回復するようにという御心のゆえだったわけです。人が変わるためには、自分に回復されるべき問題が何であるかという正しい認識と、その問題から抜け出そうとする熱望がなければなりません。そうして、その人は神の恵みにあずかることになるのです。

しかし病人は、主イエスの問いかけに対して、一見、的外れなことを言います。「良くなりたいか」という問いに、「良くなりたいです」と答えるべきなのに、彼は、「助ける人がいません。だからだめです。」という、自分が癒されない理由を並べているのです。私たちはどうでしょうか。主イエスが傍らにおられるのに、絶えず、暗かった過去と厳しい現実を並べてしまってはいませんか。主イエスは希望を語り、癒しを約束しているのに、床に横たわったまま、つぶやく私たちではないでしょうか。

そこで語られる主イエスの言葉、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節)この短い文章には、3つの命令形の動詞があります。①起き上がれ、②床を担げ、③歩け、と。病人は主イエスの命令に従います。自分を縛り続けていた病と心配、絶望の池から、真の癒しと希望の方へと歩き始めたのです。ハレルヤ!


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