『 ダビデの夢を考える 』 (サムエル下7:1~7)
聖書の人物の中で賛美に大変優れていた人は誰でしょうか。そうです。もちろんダビデです。
ダビデは様々な側面から祝福された人でした。彼は素晴らしい音楽家であり、美しい詩を書く詩人でした。また、彼がハープの演奏を始めると悪霊が離れ去るほどの霊的なパワーをもっていた人でもありました。それだけではありません。彼は当時、イスラエルを苦しめていたペリシテを始め、様々な国々との戦いにおいて大いなる勝利を勝ち取った勇士であって将軍でありました。その中でも巨人ゴリアテとの戦いの物語は有名です。また、分裂されていたイスラエルを統一し、国としての基礎をしっかりと置いた王として、国民からは尊敬され愛された人でもありました。
そのようなダビデが人生をかけて抱いていた夢がありました。それでは、ダビデはその夢を果たしたでしょうか。答えは、いいえ!でした。ダビデは王としてこの世における権力、富、すべてを手にしていましたが、それでも彼が抱いていた最高の夢を果たすことはできませんでした。その夢こそ、「神殿建築」でありました。
ダビデ自身、イスラエルの王として立派な宮殿で暮らしているのに、神の臨在を表す神の箱は、臨時に作っておいた天幕の中にあるまま。このままでは申し訳なく、心が苦しくて耐えられなかったわけです。実際ダビデは、一生涯神の家を慕い求めた人でありました。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。(詩編27:4)」
しかし、ダビデの生涯にかけて抱いていた夢は、「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。(7:5)」という神の言葉と共に拒まれてしまいます。その後、ダビデ自身、神殿を建てることは許されなかったが、後に神殿を建てるソロモンのために、神殿を建てるための土地、材料、財宝などを備える姿を見ることができます。
それでは、ダビデの夢はもう失敗で終わったことになるでしょうか。列王記上8:18の言葉を見ると、ダビデの神殿建築へに対する神の言葉を通して知ることができます。「主は父ダビデにこう仰せになった。『あなたはわたしの名のために家を建てようと心掛けてきた。その心掛けは立派である。』…この言葉は、ダビデの神殿建築についての全く新しい御心が示されることになります。恐らくダビデ自身、神殿建築を神が拒まれたことで、もう自分の夢は失敗に終わったと思ったことでしょう。しかし、神はダビデの真心からの神殿建築への心掛けを良くご存じであって、そのことについて神は「立派であった」と称賛しておられるのです。
そうです。目に見える神殿は建てられなかったですが、神はダビデのうちにある神を愛するゆえの神殿建築の夢とその熱心さ、純粋さを喜んで受け入れてくださったのです。神は、建物としての神殿建築ではなく、ダビデが抱いている神のための信仰とその思いを喜ばれたのです。そうです。神の御前では、私たちの目に見える立派な成果などは重要なことではありません。神が望まれるのは、常に神の御名のために夢を抱き、主を愛し慕い求め礼拝することです。その人の為すことは、失敗のように見えるかもしれないが、神はその人の愛と心掛けを称賛され、その夢を必ず叶えてくださるのです。小泉町教会の歴史の中においても同じく、真心から夢を抱き献身した人々を父なる神は喜ばれ、彼らの夢を叶えてくださったし、これからも叶えてくださるに違いないと信じています。ハレルヤ!
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