『 愛を知っている者として 』(Ⅰヨハネの手紙3:16~18)
8月は平和を覚える月です。キリスト教会は平和に関する礼拝や集会を開くことで、平和を実現する存在としての使命を確かめ新たにする時を過ごすわけです。とりわけ本日は8月の1週目で、主の晩餐式を執り行います。私たちが主の晩餐式を執り行う理由は、主イエスが、「これを記念しなさい」と命じられたことに従い、十字架による贖いと恵みを告白し信仰を表すためであります。「記念しなさい」と言われた理由こそ、十字架の恵みを忘れてはならない、そこに救いが示され、神の愛があなた方と共にあること、また十字架の証人として歩みなさい!という意味と目的があるからでしょう。そして、本日の御言葉を通して、十字架の愛を知っている者がどう歩むべきなのかということを教えてくださいます。 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(Ⅰヨハネの手紙3:16)」
著者ヨハネは、イエス・キリストが十字架の上で尊い命を「わたしたちのために」捨ててくださったことを確認しています。すなわち、罪のない聖なる神の独り子が、私たち罪人たちのために十字架の上で命を捨ててくださったことによって、「真の愛」を知るようになったのだと語っているのです。そして、その愛こそ、「アガペー(神の愛)」、受ける資格のない者のために、神の独り子が無条件に命までも捨てられ救いをプレゼントとして与えられる愛、それがアガペーの愛なのです。そのアガペーの極みが十字架によって示されたのです。ですから、私たちは主イエスの十字架を通して真の愛が何であるかを具体的に「知るようになった」と明かしているのです。
そしてヨハネは、私たちが主イエスの十字架の愛を心から信じ受け入れ、愛を知るようになったのであれば、その愛を知ったものに相応しく生きるように呼びかけています。ここで、「知っている」とは、ギリシャ語で「ギノスコ」と言いまして「単なる知識的な知るではなく、経験を通して全人格を通して知る」という意味を持っています。すなわち、「神の愛を知っている」と告白できるのであれば、私たちの日々の生活の中で、イエス・キリストの十字架の愛は生きて体験できるものであることが分かります。
そこで、著者はアガペーの愛を知っているキリスト教会と信徒たちに向けて、「十字架の愛を知っている者であれば、各自がそれぞれの場所で、イエス・キリストに倣って愛を実行すべきである」と教えます。しかも、その実行する愛の形として、「兄弟のために命を捨てるべきだ」という、大変厳しい表現を用いています。ここで「べきです」という言葉は、現在形として使われていて、「兄弟のために命を捨てることの継続性、また積極性を持つべきだ」ということになります。ただし、「命を捨てる」とは、主イエスのように実際に死ななければならないという意味ではありません。著者は、愛を知っている者として、兄弟たちのために「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(18節)と示しています。その中でも、「富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しなければ」神の愛はその人の内にはおられないことを宣言します。
コロナ危機に直面している世界の中で、神の愛を知っているキリスト教会とキリスト者が実践すべきことは何でしょうか。「受けるより与える方が幸いである」という御言葉の幸いを生きる神の家族でありますように…。ハレルヤ!
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