『 主イエスの宿るところ 』(マタイによる福音書9:9~13)
主イエスは家を持たないお方でした。まず、天の御国を離れ、馬小屋の飼い葉桶で生まれた時から、主イエスには宿られる場所はありませんでした。また、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と願う律法学者に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と言われた主イエスでした。なるほど、天地万物の創造者であり、すべての者の「主」であるにもかかわらず、御自分のために枕する所も備えられないお方でした。それは、ゴルコタの丘で十字架にかかり、死なれる時まで同じでした。
しかし、主イエスには決まった家はありませんでしたが、御自分が訪ねられる場所を、平安のうちに休まれる場所とされたことを、聖書は教えています。本日の10節の「イエスがその家で食事をしておられたとき」の意味は、「マタイの家の中で」という意味より、「マタイの家を家庭として」という意味となります。すなわち、ファリサイ派の人たちは当時の罪人と、烙印を押されていた徴税人マタイの家に入ることすら避けてしまうほどだったのに、主イエスはあまりにも簡単に、当時のイスラエル社会において禁じられていた、徴税人や罪人と一緒に食事をされ、その場所をご自身の家庭のように造り変えられたのです。
同じように、主イエスはお生まれになった馬小屋の飼い葉桶を宿るところとされ、激しい突風が起こり、大波に呑み込まれそうだった舟をご自身の宿るところとして眠っておられ、ザアカイの家、ラザロの家を、さらに汚れた場所であったゴルゴタの丘を主イエスの宿るところとされたのです。そうです。主イエスはどんな場所であっても、その場所を神の国、神の平和が成就する場所に変えられました。また、主イエスが宿るところは、ご自身だけのための場所でなく、その場所に共にいる人々、主イエスを慕い集まってくる人たちにとっても、人知を超えた平和を味わえる場所、恵みの場所に変えられたのです。主イエスがおられるその場所が平和な場所、神の恵みをいただく場所、希望の場所なのです。汚い馬小屋が、罪人たちの家が、病人たちで溢れていた池の周りが、また、ゴルゴタの丘が、ただ主イエスがその場所におられることで、神の聖なる家、主イエスの宿るところに変えられるのです。
今も同じです。主イエスがおられる場所、神の臨在を感じ、神の御心が成就され、神の義が求められるところは聖なる場所、神の家と呼ばれるようになるでしょう。人間的な目には汚い場所、汚れた場所、罪人、病人、貧しい人、弱い人が集まっているところに、主イエスが共におられ、御手に触れられることですべては聖なる場所に変わり、主イエスが宿るところに変わるのです。
神の家族の皆さん、あなたの家は主イエスが宿られる場所ですか。あなたの体は主イエスの宿られる神殿でしょうか。主イエスが喜んで宿られる神の家族お一人お一人、またご家庭でありますように…。ハレルヤ!
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